患者に学ぶ

宿野部 武志さん(慢性腎炎)

協力団体:患医ねっと NPO法人患者スピーカーバンク
インタビュアー:藤田 優美子(東京大学薬学部6年)、宝田 千夏(昭和大学医学部3年)

人は“病”をどう受け止め、どう感じ、“病”とどう付き合っていくのでしょうか?この企画では、様々な疾患を抱えながら生活する方々のインタビューを通して考えます。
患者に学ぶ

――3歳から慢性腎炎ということですが、子どもの頃は病気についてどう感じていましたか?

宿野部(以下、宿):物心ついたころから病気だったので、「自分が病気だ」と意識したことはあまりないように思います。ただ他の同級生とちょっと違うなと。小学校・中学校・高校と、体育はすべて見学でしたし、食事も薄味でしたから。また中学生のころは、ステロイドの副作用で顔が丸くなってしまう「ムーンフェイス」が原因で、よくいじめに遭いました。小学生の頃は毎年のように入院していましたが、病室で遊んだりして楽しく過ごしていました。ただ、面会時間が終わった後の寂しさや、看護師さんが検査札を持ってくるときの怖さといった気持ちは今でもよく覚えています。

――18歳で透析を導入されたきっかけは何でしたか?

宿:大学受験のころには尿毒症の症状が悪化し、もう透析を受けないとまずい時期でしたが、「みんなと同じように受験したい」と、主治医に無理を言いました。その頃はまだ透析について具体的なイメージはなく、言われるがままにシャント手術だけ先に行い、受験に臨みました。受験がすべて終わった後には意識も朦朧とした状態で、緊急入院し、透析導入になりました。

何となく、透析って点滴みたいなものだと思っていたんです。これで病気が治るんだろう、と。けれど、病院の売店にあった透析の本を手にとって読んでみたら、「一生続く」「カリウムが高いと死に至る」と書いてあって、強烈なショックを受けました。導入のときに説明を受けたはずなのに、全然耳に入っていなかったんです。退院した後、怖くて食事量の記録をつけ始めました。これが、結果的に自己管理のトレーニングになりました。

就職活動では、企業の障害者雇用枠という枠を受けるのですが、結果としてやりがいのある仕事につくことができました。残業したり、飲み会や合コンに行ったりと、週3回透析に通う以外は普通の社会人と全く変わらない生活でした。

――そんな中、会社を辞めるという転機が訪れますね。

宿:通院しながらの社会人生活が10年ほど経ち、「やっぱり医療に関わる仕事をするべきなんじゃないか」という気持ちが出てきたんです。それまでは怖さから、できるだけ医療というものと距離をとりたいと思っていた。けれど、病院で様々な患者さんと出会い、それぞれ違う悩みや苦しみがあるのを知るうちに、医療ソーシャルワーカーとして働きたいと考えるようになりました。会社を辞めて資格を取りたいと言うと、親をはじめ多くの人に反対されました。一度は思い留まりましたが、ちょうどその頃、二次性副甲状腺機能亢進症という合併症を発症し、手術を機に改めて自分の人生を考えました。迷惑をかけるかもしれないけれど、後悔しない道を選びたい…そう思いました。

その後も腎臓がんを発症したり、試験に合格しても雇ってくれる病院がなかったりと、苦労しました。けれど結果的には、今の生き方に満足しています。現在は、透析患者さんへの情報提供や職業紹介等を行う会社を立ち上げ、活動しています。

――自らのエネルギーの源は何だとお考えですか?

宿:目標や夢を持ち続けること、でしょうか。慢性疾患の場合、「ずっと続く病気とどう上手に付き合っていくか」が大きな課題です。その都度目標を立て、自分を成長させたいという気持ちがあったからこそ、治療を続けてこられた。逆に言えば、病気が夢を叶えるエネルギーをくれるのかもしれませんね。

宿野部 武志さん
3歳で慢性腎炎を指摘され、18歳で人工透析を導入。大学卒業後大手メーカーに入社し、人事業務に14年従事。2006年二次性副甲状腺機能亢進症による自己移植手術。2008年腎臓がんにて左腎臓摘出。同年社会福祉士国家試験合格。2010年株式会社ペイシェントフッド設立。「腎臓病・透析に関わるすべての人の幸せのために」をコンセプトに、慢性腎臓病患者の支援サービスを行う。ポータルサイト「じんラボ」(http://www.jinlab.jp/)が2013年4月オープン。