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医の倫理の基礎知識 2018年版
【生殖医療】D-6.出生前診断

平原 史樹(横浜市立大学名誉教授、国立病院機構横浜医療センター院長)


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 出生前に行われる胎児診断は胎児の健康診断(well-beingのチェック)も含めて総称して出生前診断と呼ばれる。そのなかにあって、「胎児異常」の診断、遺伝学的解析を含めた検査および診断については従来から特段の関心、注意が払われてきた。すなわち、本邦では妊娠満22週未満における出生前診断は人工妊娠中絶も許容される時期であることから妊娠を継続するかどうかの選択も包含した倫理的な問題、さらには妊娠中期における妊娠中絶の母体への身体的リスク、負担について等留意すべき多くの課題が含まれている。

 日本産科婦人科学会は1988年に本邦における出生前診断としては最初の指針として「先天異常の胎児診断、特に妊娠絨毛検査に関する見解」を発表し、重篤な疾患に対する検査としての位置づけをしてきた。その後2回の改変を経て、2013年6月に「出生前に行われる遺伝学的検査および診断に関する見解」を発表し、現時点での出生前診断における規準を示している。また新たな技術として母体血を用いた新たな出生前診断も加わったため、2013年3月には「母体血を用いた新しい出生前遺伝学的検査(NIPT)に関する指針」も示されている。一方、出生前診断を広くとらえると着床前診断(受精卵診断)も人類が科学進歩の中で編み出した生命の選別になりうる技術であり、現在本邦では日本産科婦人科学会から「着床前診断に関する見解」(2015年6月改定)が出され、審査制に基づく慎重な試みがなされている。

 現在、NIPTは高齢妊婦もしくは染色体数的異常の疑いのあるケースなど限られた適応で検査が行われているが、検査前カウンセリングが慎重に行われる診療環境にあっては、そもそもNIPTの検査を希望するケースはその最終段階に至るまでのプロセスの中で検査を受けることを決断したケースにあってはNIPTの陽性結果に引き続き確定検査へと進むこととなり、さらに確定例においては、90%を前後する高い妊娠中絶率となることが報告されていることは納得のいく話ともいえる。しかしながらそもそも年間約100万件の出産に対してNIPT検査の実施数は年間約1万件強と推定されていることからも、その存在が広く知られた今日にあっては高額な自費検査であることを鑑みても必ずしも幅広く多くの妊婦が本検査を受診する方向となっているとはいえないであろう。

 一般に、妊娠中に胎児が何らかの疾患に罹患していると思われる場合に、その正確な病態を知る目的で種々の検査を実施し、診断を行うことが「出生前に行われる遺伝学的検査および診断」の基本的な概念である。近年の遺伝医学領域の進歩により検査診断方法は多様化する一方、新たな分子遺伝学的解析・検査技術を用いた胎児診断法が世界的にもきわめて急速に発展し、出生前診断における母体血での胎児DNAの診断手法が本邦にも導入されるなど、前述の如く大きな話題となっている。もともと遺伝学的な検査に関しては、日本医学会より示されている「医療における遺伝学的検査・診断に関するガイドライン」(2011年2月)に遺伝学的検査の指針が規定されており、すべての医療者はこの基準を尊重することが併せ求められている。

 そもそも胎児は独立した人格をもつ個人か否かというと、法律上は娩出した時点で別個の人格を有するとされており、胎内に居る限り母体の附属物と扱われる。しかしながら昨今の医療の現場では胎児は患者(Fetus as a patient)として認識すべきものとされるに至っており、胎児医療の共通の理念基盤となっている。

 日本産科婦人科学会、日本医学会の個々の見解やガイドラインは紙面の都合上記さないが、その共通の理念基盤は近年の遺伝医学における基本的対応として遺伝医学的事実を正確、適切に情報提供するとともに傾聴、共感、受容の姿勢を軸とした遺伝カウンセリングを要するものとなっており、遺伝医学のより深い理解と広い普及が国民のなかに求められるところである。

 最先端のゲノム遺伝子解析研究の急速な進歩は一気に個々人のゲノム遺伝子情報を次々に明らかにしている。われわれ人類はこの世に生を受け、生き、営みを続けている自分自身が一見、健康そのものであっても、生まれながらにさまざまな"異常"を遺伝子に持ち合わせていることが分かってきた。今ある自分の存在は、ある種のがんや疾患を幸運にも発症していないか、これから発症する準備状態に過ぎないのかもしれない。ヒトという個体がこのように遺伝学的に多様性を示し、そのなかのいくつかの遺伝学的多様性(バリアント)は疾患や異常として体に現れる一方で、あるものは身体的異常も疾患も表現しないというさまざまな体への表現としての様態が混在することになる。この偶然の割り振りで運命づけられた遺伝学的多様性を人類という生物種は世代を経ながら継承しているのである。自然の摂理とはそういうものである。いわゆる先天異常は20人に1人、すなわち、3~5%の出産児には体に何らかの形態形成異常(先天異常)があるとされている。一方、遺伝子の異常(変異)をもつ者は100人中100人である。

 現在、本邦ではNIPTは13、18、21トリソミー(ダウン症)の3種類のみが認められているが一方、羊水検査では幅広く染色体(異常)所見が検出され、正常変異と判断される所見でも情報提供のされ方によっては異常ととらえて妊娠継続の意思が脅かされることもしばしば起こっている。さらにこれからの出生前診断は母体血中の胎児由来DNAをなお一層容易な手段(指先穿刺による滴下血を用いるなど)での検体を得ることが進むであろうし、精緻な画像診断での微細な異常所見に合わせたゲノム遺伝子解析を行い、これらの情報を総合的に判断することで多くの先天異常を含む多様かつ精緻な出生前診断が可能となるであろう。

 いわゆるDTC遺伝学的検査(Direct-to-Consumer Genetic Testing)として急速な展開を遂げている遺伝子検査ビジネスによる底知れない膨大なマーケット探索が出生前診断、着床前診断の世界にも波及する時代は近いものと思われる。

 胎児においても、成人においてもわれわれ自分自身にとってもすべての遺伝子が分かるという時代を迎えて、自然の摂理としての遺伝医学の基本原理・知識や、教育、社会の共通理解基盤を熱心に育んで来なかった今の社会にあっては、出生前診断への理解とより良い適正な利用へ向けて私たちにその責務が課せられている。

(平成30年8月31日掲載)

目次

【医師の基本的責務】

【医師と患者】

【終末期医療】

【生殖医療】

【遺伝子をめぐる課題】

【医師とその他の医療関係者】

【医師と社会】

【人を対象とする研究】

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