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令和2年(2020年)1月20日(月) / 南から北から / 日医ニュース

今の卓球、むかしの卓球

南から北から,日医ニュース

 大学生の頃、卓球部に入部してから、卓球に関心を持つようになりました。万年補欠で、専ら後ろで応援するばかりでしたが、卓球に参加する楽しさ、観戦する楽しさを覚え、身近なものに感じるようになっていきました。
 最近、日本では特に若い選手の活躍が目立ち、5年ほど前まで歯が立たなかった中国のトップ選手を相手に健闘し、時に勝利していく姿は痛快で、感動的です。
 卓球は、19世紀に英国で誕生したと言われています。日本に持ち込まれたのは1902年であったとの記録があるようです。1938年には日本で国際大会が開催され、日本選手の活躍も見られました。
 日本の卓球が脚光を浴びたのは1950年代でした。その当時は、ヨーロッパの選手を中心に、守備中心のスタイル(一枚ラバーを用い、下回転のカットで粘る戦型です)が主流でした。そこに挑んでいったのが、日本の攻撃的な戦型でした。
 日本が国際大会に初めて参加したのは1952年のボンベイ大会で、初参加にもかかわらず、男子シングルス、男子ダブルス、女子ダブルス、女子団体で優勝しました。
 更に1954年のロンドン大会で、荻村伊智朗氏の提言により"51%理論"が実行されました。荻村氏は、コントロールは難しいが、スピードの出るスポンジラバーを貼ったペンホルダーラケットを使っていました。通常は高く浮いたチャンスボールを待ってスマッシュするのですが、相手が追いつけないと判断すれば、低いボールでも果敢に強打していくという戦術です。必ず先手を取る、つなぎのボールにミスがないというのが前提になりますが、スマッシュが51%決まれば勝てるという考え方です。
 強豪ハンガリーとの団体戦、試合前の打ち合いを見て、まともに勝負したら勝ち目が無いと判断した荻村氏は一番手の富田氏に"あれを決行しよう"と耳打ちしました。初めはスマッシュミスの連続で劣勢(れっせい)だったようですが、後半から決まりだし、奇跡的な勝利を収めたそうです。動揺したハンガリーは総崩れとなり、勢いに乗った日本男子チームは初の団体戦優勝を果たし、5連覇の口火を切ったそうです。
 荻村氏はその後スポーツを通しての世界親善を願い、米中会話のきっかけをつくり(ピンポン外交と言われています)、更に千葉県での大会で南北朝鮮合同チームの招待に成功しました。また、中国に渡って、中国卓球チームを指導し、現在の卓球帝国中国の基礎をつくったそうです。
 時は流れ、卓球も変わりました。スポンジラバーは禁止となり、ネットも少し高くなり、守備型に有利なようにルール変更がありました。ラケットや接着剤、ラバーの進歩により、今はドライブマン全盛の時代となり、特に男子では世界ランキングの中から守備型の選手を探し出すのが難しくなってきました。
 台上の短いサービスを返球する時、かつてはフォアハンドのコンパクトスイング(フリックと言います)が攻撃型の上級者の高等技術だったのですが、最近のトップ選手はバックハンドで強い回転をかける、台上バックハンドドライブレシーブを多用します。特に、強い横回転をかけて返す技術をチキータレシーブと呼んでいます。巻き込みサーブ、YG(ヤングジェネレーション)サーブ、バーチカルサーブ等の強回転で分かりにくいサーブに対応するためとも言われています。
 東京オリンピックを控え、日本選手は卓球王国奪還を目指して健闘して下さることと思います。技術の変遷や日本卓球をつくり上げてきた先人達に思いを馳せることで、応援により一層熱が入ることと思います。

(一部省略)

東京都 西東京市医師会報 第73号より

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