|
第1098号(平成19年6月5日) |
NO.41
再分配からサービス給付へ―社会保障への財政学からのアプローチ―
神野直彦(東大大学院経済学研究科教授)
|
神野直彦(じんのなおひこ)
東大大学院経済学研究科教授.昭和21年生まれ.昭和44年東大経済学部経済学科卒.その後,東大経済学部助教授・教授,東大大学院経済学研究科長を経て,現在に至る.専攻は財政学・地方財政論.主な著書に『希望の構想』(2006年 岩波書店),『脱「格差社会」への戦略』(2006年 岩波書店)などがある. |
国が社会的・経済的な危機を回避するためには本当は何が必要なのか.今号では,財政学の視点から,神野直彦氏に指摘してもらった.
(なお,感想などは広報課までお寄せください)
危機に陥った社会では,将来に対する期待が喪失する.二〇〇四年(平成十六年)六月に内閣府が発表した「安全・安心に関する特別世論調査」によれば,「今の日本は安全・安心な国か」という問いに対して,「そう思わない」という回答者が過半数に達している.しかも,その理由の第一位は,六五・八%の回答者が指摘する少年非行や,自殺などの社会的病理現象が発生していることにあり,第二位は六四・〇%の回答者が指摘する犯罪などによる社会秩序の乱れにある.つまり,日本国民は暗雲のように垂れ込めている社会的危機という不安に脅えている.
危機,つまりクライシスとは岐れ路を意味する.病の「峠」をクライシスと言うように,歴史にも危機の「峠」がある.危機の結論は二つしかない.破局か,肯定的解決かである.
福祉国家の行き詰まり
日本社会が危機に喘いでいるのは,歴史の「峠」でハンドルを切り間違えたからである.越えなければならなかった歴史の「峠」とは第二次大戦後に先進諸国が挙って目指した福祉国家の行き詰まりにある.
福祉国家とは市場の外側で,財政が経済再分配をして国民の生活を保障する国家である.弱肉強食,優勝劣敗の競争原理の市場経済で敗れた者や弱者は,市場の外側で財政が「お金」を配って,国民の生活を保障する国家が福祉国家なのである.
ところが,所得再分配をするには「お金」を自由に動かすわけにはいかない.富裕者に租税を課しても,富裕者が「お金」を海外に自由に動かしてしまえば,所得再分配は困難となるからである.
ところが,一九八〇年代になって金融の自由化が進むと,経済のグローバル化が生じて所得再分配が困難となる.こうして一九八〇年代になると,福祉国家の所得再分配に対抗する新自由主義の「小さな政府」の主張が説得力を誇示することになる.一九七九年にイギリスのサッチャー政権,一九八一年にアメリカでレーガン政権,さらには一九八二年に日本で中曽根政権と,新自由主義政権がイギリス,アメリカというアングロ・アメリカン諸国と日本で誕生したのである.
しかし,新自由主義の「小さな政府」は格差社会を生起させる.イギリスをみても,サッチャー政権が成立する一九七九年までのイギリスは,所得が平等化する傾向にあった.ところが,サッチャー政権が誕生するや所得格差は急激に拡大する.しかも,格差社会に陥ると社会に亀裂が走る.サッチャー政権のもとで警察官の人員を増加させたにもかかわらず,犯罪件数は記録的な増加を示したのである.
そこで「ほどよい政府」を目指す,「もう一つの道」が模索される.それは市場の外側で「お金」を再分配して国民の生活を保障するのではなく,サービスを給付して国民の生活を保障する道である.
「お金」を財政で再分配するには,高額所得者に負担を求め,低額所得者に給付する.そのため高額所得者がフライトしないように国境で管理する必要がある.そのため金融に自由化が進むと国境による管理が困難になり,所得再分配は行き詰まる.
ところが,サービスの給付は相互扶助的に負担すればよく,高額所得者に重い負担を求める必要はない.そこで,医療・福祉・教育という対人社会サービスを財政が提供して,国民生活を保障する道が目指されていく.
国民生活の保障なしに経済は活性化しない
医療・福祉・教育という対人社会のサービスは本来,家族やコミュニティの相互扶助として提供していた.福祉国家の行き詰まりとは,重化学工業の時代から知識産業やサービス産業への産業構造が転換していくことをも意味する.
ところが,「お金」による所得再分配で国民生活を保障するセーフティネットから,対人社会サービスによるセーフティネットへの張り替えが進まないと,国民は失敗を恐れ,産業構造の転換が進まない.産業構造を転換しないまま国際競争力を強めようとすれば,賃金の切り下げ競争となり,経済も停滞していく.
表に示したように,日本は国際的にみて,医療・福祉・教育への支出は低い.高いのは経済振興のための支出だけである.しかし,それでは経済が活性化しないどころか,経済的危機が社会的危機へと飛火してしまう.
市場社会は「公」と「私」が車の両輪にならなければ発展しない.「公」が医療・福祉・教育という対人社会サービスで,国民生活を保障しない限り,「私」の経済も活性化しないのである.
「公」を破壊して「私」化する口実は,いつも「財政破綻」という恫喝である.しかし,「財政破綻」を口実にして,財政収支の帳尻合わせのみに目を奪われてはならない.財政収支の危機は社会的危機や経済的危機の結果に過ぎない.結果に過ぎない財政収支の帳尻を合わせてみても,社会的危機や経済的危機が激化してしまえば意味がないのである.
|