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第1113号(平成20年1月20日) |
新春対談 柳田邦男氏VS唐澤人会長
“覚悟”が必要な時代
今回は,ノンフィクション作家として,幅広い分野における著作を発表し,またIT時代の,特に子どもの人格形成や心の問題に関しても積極的に発言されている,柳田邦男氏をお迎えし,現代社会と日本,生と死,医師の役割などについて語っていただいた.
唐澤 お正月といいますと,私は戦中の三多摩生まれで,防空壕の中で震えていた記憶があります.また,終戦後,兄が,どこからか,もち米を持ってきて,暮れに餅つきをし,お餅だけ食べた思い出もあります.
先生は栃木県の鹿沼のお生まれと伺っていますが,記憶に残るお正月について,お話し願えますか.
柳田 家に大きな臼(うす)があって,いつも暮れの三十日ごろには,餅つきをしていました.私の父は,校長をしていて,そのころは結核を患って休んでいたかな.お菓子などはなく,贅沢もできない時代でしたから,餅つきはすごく楽しかったですね.
私は,六人兄弟のいちばん下で,つきたてを餡(あん)ころ餅にしたのは何よりのご馳走で,あとはお雑煮,甘酒,汁粉.当時,だんだん砂糖が手に入らなくなり,サッカリンを使ったりして.
唐澤 わりと豪華なお正月ですね.
柳田 母が大きな農家の出で,庭先の五十坪ぐらいの畑で野菜類をつくり,正月料理などはほとんど手作りでした.ただ,戦後の方が食料難で,学校の夏休みなどには,那須にある母の実家へリュックを背負って行って,しばらく逗(とう)留し,帰りは米をもらってくる生活でした.それだけに,正月の餅つきは楽しみでしたね.
唐澤 お正月を家族団欒(らん)で迎えられた光景が目に浮かびますね.何歳くらいまで鹿沼にお住まいだったのですか.
柳田 新制高校の三期生なのですが,高校を出て一年浪人して十九歳までです.
唐澤 先生は,私たちに大きな影響を与えてくださるお仕事をたくさんされていますが,故郷におられたころに,何かきっかけになることがあったのでしょうか.
柳田 そうですね,父と二番目の兄が,小学生時代に結核で亡くなりました.高校生のころには,上の姉の最初の子が一カ月足らずで亡くなるなど,死別が相次ぎました.
また,空襲や戦闘機の機銃掃射なども体験しました.戦後,いちばん上の兄も結核になったのですが,今,八十三歳でC型肝炎に起因する肝臓がんと闘っています.“病気”と“死”が日常的にあったというのが少年時代の強烈な印象です.
もう一つは,昭和二十七年,高校一年の時,占領体制が終わって検閲制度がなくなり,初めて公開された広島・長崎の原爆被災状況を『朝日グラフ』の特集号で見て,ものすごいショックを受けました.また,クラスに社会問題などを情熱的に語る友人がいて,社会的な目を開いていくなかで,日本の国のあり方などについて,仲間同士で議論したり考えたりするようになったのも,根っこかなと思います.それと,本からもさまざまな影響を受けましたね.
医師は患者と向き合う“コミュニケーションの専門家”たれ
柳田 邦男(やなぎだ くにお)
ノンフィクション作家・評論家.昭和11年栃木県鹿沼市生まれ.昭和35年東京大学経済学部卒業後,NHK入局.社会部放送記者として活躍した後,退局して執筆活動に専念.著書に,『ガン回廊の朝』『「死の医学」への序章』『犠牲わが息子・脳死の11日』『20世紀は人間を幸福にしたか』『壊れる日本人』『石に言葉を教える』『砂漠でみつけた一冊の絵本』ほか多数がある. |
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唐澤 過日,先生のご著書『この国の失敗の本質』をいただいた際に,「読むことは生きる力」と手ずからサインして下さいました.『この国の失敗の本質』は,たびたび読み返していますが,医療担当者にとって,とても参考になります.
先日,西洋医学教育発祥百五十年,長崎大学医学部創立百五十周年合同記念式典に行ったのですが,ポンペ先生(一八二九〜一九〇八)は,「医師を志すのであれば,自分の身は患者さんのためにあるという覚悟がいる,それを果たすつもりがないのならば医師になるべきではない」と言っておられたそうです.
柳田先生は現代的に,「これからの医師は,先端医学の知識を身につけた専門家であると同時に,患者の理解と信頼を得られるような深いコミュニケーションができる“コミュニケーションの専門家”にならなければならないのだ.知識偏重だった医学教育,卒後教育の新しい重要課題と言わなければならない.それは続発する薬害を未然に防ぐとともに,科学技術に支配されがちな現代の医学に,本来の人間性を取り戻す道であるのだ」と書かれています.
柳田 人間は,豊かになりたい欲望があって,それが進歩の原動力の一つになるのですが,ただ,進歩を無条件に受け入れるだけでは,切り捨てられる大事なものに気づかないことが多いのです.私は,学問の進歩を否定するつもりはまったくないのですが,そのことで失うものもあります.
例えば,私が育った時代は子ども部屋などなく,八畳間に六人の子どもが川の字になって母親と一緒に寝ていたわけで,人間の肌を接して,社会性はひとりでに身につき,譲り合う気持ちなど,いろいろなものが育ってくる.それが,経済的に豊かになり,子ども部屋ができると,一国一城の主になって,自己中心的になり,コミュニケーションのなかで育つ自然な感情や人に対する思いやりなどが希薄になっていく.豊かになることは,人格形成に本当にプラスになるのかという問題が起こってくる.
医学の進歩も同じで,治らなかった病気が治ったり,治癒率が上がるなど,疾患に対する対処の仕方が非常にサイエンティフィックで効率的になるのですが,人間との接触ということで考えると,何か抜け落ちているのですね.
実は,数日前に水俣で,いまだに苦労しておられる水俣病の患者さんの話を聞く機会がありました.そこは漁師の網元の家ですが,父親が劇症の水俣病で悲惨な最期を遂げ,六十九歳の女主人は,何十年も水俣病で苦しんで,加齢によってさまざまな症状が出てきたというのです.
唐澤 恐ろしい病気ですよね.
柳田 この夏,痛くて仕様がないので,病院へ行くと,お医者さんがパソコンを見てマウスでクリックしながら,説明はするのですが,顔を一回も見てくれない.それで,お医者さんに,「顔ぐらい見て,聴診器を当ててください」と言うのだけれど,「いやあ,当てなくてもデータで分かっていますよ」と言って,相変わらずパソコンを見ているというのです.
患者さんは,画像やデータには現れない腕の痺れなどが,日ごと,うねりのように襲ってきて眠ることもできなかったりする.そういう症状に対して,お医者さんが向き合って助言をして欲しいと思っているのに,ただ診断的な話をして,薬を処方する.まして彼女は今,鎖骨の内側と骨盤の内側の二カ所にがんを抱えていて,それが痛みの原因の一つなのです.本人は,抗がん剤や強い痛み止めを使いたくないという悩みを持っている.それを受け止めるにはコミュニケーションが必要なのです.データだけで,その人を診ているつもりになるのは,学問,医学の進歩がもたらした落とし穴ですね.
唐澤 私も患者になったことがありますが,主治医が患者のつらさを我がこととして感じ取ってくれているかどうかが,満足できるかどうかの境目のような気がします.
一方,医療を提供する側の立場では,忙しいので,じっくりと話し合い,気持ちを添えたり,共有する時間がなかなか取れない.本当は医師もそうしたいと思っているはずですが.
よく「手当て」と言いますが,「どこが痛いのですか」と手を触れ,聴診器を当てて,じっくりと診察すれば,患者さんの治療に取り組む意欲も出てきて,コミュニケーションができるはずです.
柳田 ええ,患者さんの意欲や意思の強さは,病気の進行や痛みを抑えるうえで,非常に大事だと思います.その女性も,「痛みがあろうと,がんが進行しようと,私は生きる」という強い意思を持っていて,さまざまな危ない局面を乗り越えてきている.痛みがとても激しい時でも,四人の息子さんが魚を獲ってくるのを指揮するために,作業着を着て浜に出ると,しゃんとすると言うのです.「病院で寝てたんじゃ病気は悪くなる」と言うすごい人です.尊敬しています.
唐澤 そういう方を診察することで,医師としても人間としても成長できるのですね.
柳田 人間が魂レベルでぶつかり合うような向き合い方をしないと…….
唐澤 逆に,医師として,教えていただくことが多いでしょうね.そういう機会を大切にしないといけませんね.
柳田 私はその方の所へ行くと,生命,生きる,親子など,学ぶことばかりです.
唐澤 現在の科学主義や効率主義中心の時代に,先生は,「もっと大事なものがある.人と人との交流もインターネットや携帯電話だけではない」というお話をされておられます.今の社会には欠けているものが多く,私も何か変だなと感じてはいます.
柳田 人間が生きるうえで大事なことは,まず自分自身を一人の人間として尊敬すること.自分が社会的な役割を担って生きているという自負心を持つ,そして意欲を持って楽しく仕事をすることです.そのためには,他者から認められるということが不可欠です.他者から認められると,人は仕事に意欲を燃やし,患者は病気に打ち勝ち,パイロットは事故を起こさないように注意深さを維持する─などが可能になると思うのです.
最近,テレビ番組の再放送を見て再認識した話なのですが,一九六〇年代終わりから七〇年代前半,アメリカで,黒人差別を撤廃しようという動きが強まり,公民権運動が非常に盛んになった時期に,中西部の保守的なアイオワ州で,ある女教師が,子どもたちに差別心を持たせない教育はどうやったらいいかと悩んでいました.九〇%以上が白人で黒人がほとんどいない州で,黒人を蔑視し,召使いぐらいにしか考えない風土なので,子どもに言葉だけで差別するなと言っても難しい.差別はいけないという気持ちを持たせるには,体に染み付くような体験的な授業をしないとだめです.
そこで,クラスの子どもたちに対し,「ブルーの目の人は知的に優れていて,ブラウンの目の人は劣るのだ」と言ったのです,実験的に.そうしたら,ブルーの子どもたちが,勉強やスポーツに生き生きと取り組み,顔は輝いている.ところが,ブラウンの子は,みんな落ち込んで,勉強をしても頭に入らない,非常に後ろ向きになってしまう.さらに,ブルーの目の子からブラウンの目の子に対してのいじめが起こってくる.
ところが,何日か後に先生が,「先生は間違っていた.実はブラウンの目の人の方が優れているのだ」と逆のことを言うと,逆の現象が起きる.
日が経ってから,先生が,「実はみんなに,差別され,自分が認められないということが,どんなにつらいことか知って欲しかった」と説明し,最後に,「こういう差別はあってもいいのか」と問うと,全員が「ノー」と大きな声で答えたのです.
さらに,面白いのは,自分が認められ,存在価値があるという意識を持つと成績が上がることも分かりました.
唐澤 かなり大胆な実験ですね.
柳田 ええ.自分の存在価値が認められると,仕事であれ学校であれ,自分の役割があり,どんどん前へ進むことができる.それを阻害する原因が,実は効率主義や市場主義にあるのです.それらは,企業や病院など,組織の経営改善や収益を上げるうえでは,見かけ上良いわけです.
ところが,そこで働く人に目を向けると,実は問題がたくさんあるのです.
私は,今,ある航空会社の安全顧問をしています.マニュアルの整備も大事ですが,規則を細かく作り過ぎると,それを守ることや枝葉末節の方ばかりに注意力が向き,安全のための最もベースとなる,前向きに仕事に取り組む姿勢が抜け落ちてしまう.それではだめで,職場の風通しをよくし,差別感をなくす.パイロットと整備士,正規社員と臨時雇用契約社員,そういう上下の関係は一切なくして,みんなが平等に,自分の仕事に誇りを持ち,毎日会社に行くのが楽しいというように意識改革をするのが,安全の最も根底にある課題だと言っています.
事故やトラブルを調べてみると,結局,職場の風通しが悪かったり,合理化・効率化のなかで,ギューギュー締めつけられることが原因になっているのですね.意欲や誇りを持って仕事をすれば,人間のミスは少なくなります.
唐澤 先生,今の安全のためには何が大事かという話ですが,実は医療の現場でも同様で,非常に大事な,乗り越えなくてはいけない一面が出てきたかなと感じています.
柳田 例えば,医療者と患者のコミュニケーションの問題でも,「忙しくて,とてもそこまで気を回せないよ」と言う方が多いのですが,同じような忙しさのなかで,とてもうまく患者と接している方がいるのです.
この差は何かと考えた時,良い医師患者関係をつくっている方は,医療の本質である患者の立場になって物事を考え,患者に喜ばれるような対応の仕方を常に考えることを,自分の生き方の信条にしているのですね.患者に会っていると楽しい,あるいは患者から学ぼうとしているから,難しい患者でも次第に心を開いてくるのです.
一方,忙しいと言って,学会の論文に追われている医師は,患者と接することが苦痛なのです.そういう状況からは,前向きな人間関係や良いコミュニケーションが生まれるはずがありません.
死に際しては“精神性の命”に対する“救命”の手を
唐澤 人は生きていくなかで,重い病気や助からない病気にかかって,いつか死を迎えるわけです.少子高齢社会を迎えて,最先端の医療を駆使しても救えない場合など,終末期医療とか尊厳死といったものを,医療担当者としても念頭に置かなくてはいけない機会が多くなってきたと思います.新年早々ですが,避けて通れない“死”について,先生のお考えをお聞かせください.
柳田 医療が死と向き合うことが,真剣に考えられ出したのは七〇年代の終わりごろからで,特にがんの場合ですね.歴史をたどると,それは医療の原点でもあるし,結核全盛時代には,サナトリウムでの医療者は,当然,死を前提にしながら患者さんと対話をしたり,患者さんと一緒に歌を詠んだり絵を描いたりしていた.当時の結核専門医は,ある意味で終末期医療の先駆けだったと思うのです.
私は,死にゆく患者さんとの向き合い方こそが,実は医療者に求められる,いちばん大切なことだと考えます.死を前にした患者さんと向き合える医療者なら,どんな患者さんとも向き合える.それは技術としての医療の域を超えています.
昔は,医学が進歩していなかった分,死は避けられない現実として,いつも視野のなかに入っていました.それが現代医学では,救うという面のウエイトが大きくなり過ぎて,死を敗北と受け止めるようになってしまった.
唐澤 まさに,そんな感じがしますね.
柳田 最近,私は,新しい「ライフサイクル論」を提言しているのですが,精神性における命の問題を考えると,肉体的・経済的なライフサイクルとは異質だろうと思うのです.肉体的・経済的なライフサイクルは,壮年期に最高の位置に達し,放物線を描くように下り坂になって肉体も弱り,定年を過ぎ,経済的な収入も少なくなり,死をもって終わるという考え方でした.
しかし,精神性の命は,死ぬまで上昇し続ける.たとえ収入がなく,病気になっても,精神性豊かに生きることは非常に大事で,死の迎え方,死を前にしてどのように生きたか,どんな仕事,どんな言葉を残したかが,その人の家族や友人など,多くの人の心のなかに大切なものを残すのです.
人間は,この世に生まれたからには,死は避けられない.けれど,より良い死の形は,次の生を生きる人にとっては支えになる.精神性の命は,ある意味で死後も生き続けるのです.それがもし非業の死とか,医療ミスによる死,あるいは終末期に十分なサービスを受けられず,つらい最期だった場合,残された人が,無念の思いで心に傷を残してしまう.つまり,人間のライフサイクルにおける死のステージは,次に生きる人,残された人の生命や生き方に大きな意味を持つ.そこに医療者がしっかりとかかわらなければ,肉体的な命とは別のもう一つの命,つまり精神性の命に対して医療が“救命”の手を差し伸べなかったことになるわけです.
唐澤 精神性のなかに深い意味があるのですね.
柳田 医療は人の生命を救うことを命題にしているわけですが,現代医学が発達するほどに生物学的な生命の方のウエイトばかりが大きくなってしまいました.
私自身は,死を前にした人の生き方,素晴らしい最期を過ごされた方々をたくさん見てきましたが,人がどういう最後の生き方と死の迎え方をするかによって,残された人が生き生きと生きるのか,つらい思いや悲しみを抱えて生きるのか,分かれてしまうのです.
例えば,在宅ホスピスケアを受けられた,ある下町の工場主の方は,大きな病院では痛みも十分治してもらえずに悲惨な状態だったのですが,とても良い先生にめぐり合うことで,最後の一カ月を自宅で過ごされました.そうすると,その方は,地獄から天国に来たようだと言うくらい非常に穏やかになって,とげとげしい感情も取れた.十分な疼痛コントロールもしてもらえて,お孫さんが背中をさすったり,排便の手伝いをしたりして,一家団欒のなかで素晴らしい看護をしてもらえて,「おれは幸せだ」と言って,満足して旅立った.残された奥さんも,立ち直るのが本当に早かったですね.「主人は桜の花は見られなかったけれど,私たちに心の花を残してくれた」とおっしゃって,これが魂のライフサイクルのいちばん大事なところかなと思います.
唐澤 私も以前は五,六人の方を在宅で診ていたのですが,現在は所望されるお一人だけ往診しています.患者さんはつらい部分もあるでしょうが,在宅だと家族がいつもそばにおられ,生活があり,心の交流もあり,笑いもあります.在宅ではそのような雰囲気が非常につくりやすい感じがしますね.医療者としては,それを支えられる立場になるのは,本当に良いことかも知れません.
柳田 最近,在宅医療にかかわるお医者さんが増えつつありますね.
床屋さんをやっていた初老の女性が末期がんになったのですが,本人は復帰を目指し,握力を失わないように,いつも寝床で手や指の運動をしていた.医学的に見るとあと一〜二カ月かなという状態にもかかわらず,理学療法士が派遣されてリハビリをしたのです.その患者さんは嬉しくて,筋肉や脚力のトレーニングをするようになり,トイレにも行けるようになった.ますます気持ちが高揚し,指が非常に柔らかくなってきて,末期で病床にあるのに,家族や理学療法士など,みんなの散髪をしてあげたり…….
唐澤 素晴らしいですね.
柳田 ええ.社会的に自分が果たすものがあることが,人間が生きるエネルギーになる.残念ながらその方は間もなく亡くなりました.メディカルな目で「どうせ死ぬのだから,何の意味があったのか」と言えば,それまでです.でも,その人の人生にとってはかけがえのない二,三週間であったし,それがあったから亡くなった後,残された家族が「おかあちゃんは最期まで希望を捨てなかったね」と「希望」の意味を考え,グリーフワーク(死別の悲嘆からの解放)が早く進むのです.人間は単に動物的・生理学的に生きているのではなくて,その人ならではの生きざまが非常に大事だと思います.
唐澤 やはり,高齢者医療の現場では,「生まれてきてよかった」と言ってもらえるような,実際には,そこまでの言葉がなくても,そういうことが感じ取れると良いですね.
過渡的時代に果たすべき医師の役割
唐澤 現代社会のなかで医師が果たすべき役割についてお聞かせいただければ,明日からでも行動に移したいのですが.
柳田 今は価値観の変動期だと思うのです.戦後民主主義,そして個人主義が,ある意味で行き過ぎて,それが“自己中(じこちゅう)(心主義)”と言われるような,何でも自分の権利ばかり主張するという風潮が起こっています.学校や保育の現場でも,親御さんがわが子の利益しか考えていなくて,周りとの調和やお互いの協力を無視し,自分の主張ばかりして教師や保育士を執拗(よう)に責める.これは医療現場でも同じで,医療者ばかりを責める患者さんもいます.
しかし,そういう立場の人は,責められても表立って反論できない.社会状況からも,何か言えば権威を振りかざしているとか,患者の立場,あるいは子どもの立場に立っていないと批判されてしまうので,“忍”の一字で黙っているわけです.
敗戦により長い間の封建主義から解放され,主権在民になったまではよかったのですが,それから半世紀以上が経ち,自己中心の価値観ばかりが醸成されてしまった.本当の意味での民主主義,あるいは個人の権利が,良い形で定着するところまで至っていない.やはり,“権利”のもう一方の車輪に“義務”があり,“個人の利益”の一方に“公共性”があることを,もう一度見つめ直していかなければいけない.日本は今,その過渡期にあると思うのです.意識改革には具体的な特効薬などありえないわけですが,過渡期なのだと意識しながら,組織としても個人としても医師が果たすべき役割を考えていく必要があると思います.
医療事故を見ても,一九九〇年代の終わりごろから急速に社会問題化し,行政も動き出した.医療機関も対応しなければということですが,まだきちんと枠組みができていないわけです.何か事が起こった時には,いざとなれば“責任を取る”とか“腹を据える”といったことがとても大事で,そういう“覚悟”なり“決意”がないといけないですね.
つまり,逃げてはいけないのです.自分は失職しても,きちんと筋を通す形で向き合うことが必要ではないか.特に,病院長とか教授といったポジションにいる人は,それが今,問われています.この十年間に起こった医療事故などを見ても,そこがふらついていると,泥沼のようになっていく例が多かった.
唐澤 “覚悟”ですね.昔は良く使われました.
柳田 昔,僕らの少年時代は,空襲とか結核があったりしましたから,死というものに対して子どもながらに覚悟がありましたよね.
もっとさかのぼりますと,幕末の金沢藩の武家の家計簿や書き付けが残っていたのを歴史学者が発掘したのですが,そのなかに病気で死んだ五歳の女の子の遺書があったのです.五歳の子が,両親とか兄弟とかに宛てて筆で書いて箪笥(たんす)にしまっていたのですね.自分の死を自覚し,いつ来てもいい覚悟ができているというのが文面からちゃんと伝わってくる.それができる時代だったのですね.
最近,地方へ行くと,なるべく歴史上の人物の生家とか記念館に寄ることにしているのですが,先日,水俣へ行った時に,明治,大正,昭和を通じて大論客だった徳富蘇峰と文学者の徳富蘆花の生家を訪ねたのです.徳富蘇峰は,何と二歳の時から父親が横に刀を置いて向き合い,教育を始めた.昔はよく聞く話なのですが,父親が侍の名残りで刀を置いていて,時には抜刀したというのですね.
今の時代だったら大変なことですけれども.そういう,決して天才教育ではない,魂の教育というのか,人としての道を,すでに二歳なり五歳ぐらいから,きちんと親が教えていくということを,大いに学ばされました.
唐澤 今でしたら大問題になってしまいますが,それも親の愛情の形なのでしょうね.
日本医師会で行っている生涯教育制度の準備段階における最初の委員長で,実地医家の会やプライマリ・ケア学会なども立ち上げられた永井友二郎先生の著書にあるのですが,ご自分が八十六歳の時,往診先の八十八歳の小学校時代のお友達の所で,「往診しながら私は死ぬかも知れない」と考えたそうです.永井先生はミッドウェー海戦にも参戦して生き残ってこられた方で,おそらく,「おれはどこでも死ねる」という覚悟があったはずなのです.
私がシンポジストとして参加した,ある勉強会で,フロアから,「あなたは一体どこで死にたいと思いますか」という質問が出て,苦し紛れに永井先生と同じように,「どこでも死ねます」と答えたのです.これが結構受けましてね(笑).
少なくとも,人を看取る立場としては,どこでも死ねる覚悟がなくてはだめなのではないかなと思うのですが.そういう意味でも,ポンペ先生の話ではありませんが,医師になる時には,そういう“覚悟”をしなければいけないのではないか.先生のお話を伺っていて,やはり“覚悟”は大事だと再確認しましたし,これからも若い先生方に示せればと思いますね.
本日は,私たち医療者にとって大変参考になる,そして興味深いお話をしていただき,どうもありがとうございました.
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