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第1115号(平成20年2月20日) |
日本医師会賞
「人間力の治療を見た」
山口年宥(としひろ)(64)無職 愛媛県
ガッシャーン,けたたましい音と共に親友のMが自転車ごと飛び込んで来た.
「お前なにしとんねん」.思わず叫ぶ私に「俺(おれ),真っすぐ走られへんねん」.とぼけた口調のMはすまなそうな顔で座りこんでいた.
どうしたんや? 私の問いに,何が何やら分からんのやと答えるM.聞くと,ここ一カ月ほど,ふらついて重心がとれん,その結果真っすぐ歩けないとのこと.
「お前,それ普通ちゃうで.一回病院へ行って来いよ」.この一言に「そやな,どこの病院へ行こ」.Mは決心したらしい.私が経営する飲食店のお客さんK医師に相談の結果,「すぐ来なさい」となり,K医師の勤務する公立病院へ急いだ.
「小脳の細胞が減っていて,今のところ原因不明.それ故,治療法は確立せず,かなり難しいものです」.私を別室に呼び,苦々しい面持ちでK医師が告げた.
身寄りの無いMの兄弟同様として告げられた私は困惑し,果てしない絶望感を覚えた.
Mとはお互い二十歳代前半から二十五年つきあっていた.別々の人生を……と一年ほど離れていた中,職場の高所から落ち大怪我(けが)をして帰って来たM.帰って来てしばらくは店を手伝ったりしていたが,すぐに仕事ができなくなり,私が用意していた住居でぶらぶらして過ごしていた.その頃(ころ)医師に診せていたらと悔いたものである.
半年の通院後入院したM.「すまんな,何の役にも立てんと」.見舞いに行くたび,Mは涙をうかべ詫(わ)びるのである.「あほなこと言うな.俺と一杯飲むんやろ」.元気づけるつもりであったが,私自身どこか空虚で,寂寞(せきばく)感に包みこまれどうすることもできなかった.
何回目かの見舞いのとき,驚きの光景を目にした.MがK医師と若い看護師にかかえられ歩行訓練をしていたのだ.命は助からないのになぜ? この私の疑問がいかに浅はかで,不謹慎なものであったか,一時間後K医師の言葉で思い知った.
「救えないMさんを救えるのは,一刻(いっとき)の生を与える事と考えます.それには俺も歩けると思わせるしか他の方法はありません.ただ私や看護師がいい加減にしますと,Mさんはそれを感じ悲しい目をします.真ごころこめて歩け歩けと励ますと,Mさんが心から有難うと言います.この有難うの瞬間がMさんの生の刻(とき)なのです.看護師をはじめ関係者には,できる限り,この心を持てと徹底しています」と話を締めたK医師.私は,ただただ頭を垂れるしかなかった.
見舞いのたび小さくなっていくM.私はだんだん辛(つら)くなり病院への足が遠のいていたある日,急いで来てくださいと病院から電話.祈る思いでMの病室に入った.Mのベッドが空(から),えっという心境で見回した.ふと眼の端に映る人影,なんとK医師がMを抱きかかえ窓の外を見せている.「先生」.私は小声で呼びかけた.「Mさんは今,見えないものを見ています.君も一緒に見てあげたら」.より高くMを抱き上げ,K医師は遠くを見ていた.
私が傍らに寄ると,Mはふわという風に目を開き薄く笑みをみせ,「すまんかったなあ.有難う」.ほとんど話せない中,何度も繰り返した.
「今がMさん一刻(いっとき)で最後の生でしょう」.K医師は大事そうにMをベッドに寝かせながらしみじみ言ったが,その顔は泣いていた.
ここ二,三日だろうから会わせる人が居るならとの言を受け,元気な頃のMが,「三歳のとき別れたままの子ども,一度会いたいが無理やろうなあ」と言っていたのを思い出し,よし,会わそやないかとばかり,かすかに聞いていた手掛かりを素(もと)になんとか捜しあて,奇跡の再会をぎりぎり間に合わせた.
目に一杯の涙を浮かべ,「すまんかった」を連呼し,Mは四十六年の人生を終えた.
「先生,有難うございました」.私の謝辞に対し,「いえ,力及ばず残念です」.きっかりした口調で答えK医師は自室へ歩を進めた.
私はこのK医師のMに接する姿に感嘆していた.寝返りをうたせたり,何か聞こうと耳をMに近づける動作など,全てに真心そのものを感じとれたからである.
新鋭機材や化学治療などが真っ盛りの医療界にあって,「人間力の治療」を体験できたのである.ま,これもMのお陰てな事を思いながら,「生を与えるため心から接する」という言葉とK医師の顔が,今も私の腹の底の底で生きている.
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