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第1194号(平成23年6月5日) |
JMAT(日本医師会災害医療チーム)活動報告(1)
東日本大震災でJMATに参加して─立ち上がろう!!団塊世代
東日本大震災の約三週間後の四月四〜八日の五日間,宮城県石巻市に広島県医師会JMAT第五班の団長として医療支援に行ってきた.診察は三日間だが,広島から東北は遠く,二日間は移動に要した.自分の診療所の留守は女性医師四人にお願いして出掛けた.
私たちのJMATは医師三人〔(外科二人(五十二歳,三十歳),産婦人科(私六十四歳)〕,薬剤師六十三歳,看護師三十三歳,県医師会事務職員三十一歳の六人.四月四日,ANA便で東京経由福島空港.その後はレンタカーで石巻市を目指して東北道を北上し,その地区を統括する石巻日赤病院の全体ミーティングに出席.その時点で避難所二百二十六を五十三チーム,エリア十四に分けて診療支援していた.
広島県医師会JMATは高知DMATが統括の六Cエリア(渡波小学校近辺)に配属.他に日赤,東京大学,産業医科大学,東北大学一名(地元出身で個人で参加)が担当.四月五日から活動開始.毎朝,石巻日赤病院での全体ミーティングで眼科チーム巡回,自衛隊による入浴の送迎の日程のアナウンス,補助食品の支給などの説明を受ける.九時に渡波小学校(避難人数四日五百三十人,八日四百五十人と日々減少)に集合.現地までは約九キロメートル.海に近づくにつれ,被害が大きくなっていくが,家の倒壊は見られない.トンネルを抜けると(海から一・二キロメートルくらい)景色が一変.家が流され,倒壊した建物などのがれきの山が続き,船が至るところにある.テレビで見たとおりである.
十時から十五時までエリア内の避難所を分担して,診療に出掛ける.私たちは渡波小学校の避難所を中心に診察.教室で子どもの机と椅子を使っての診察と避難所になっている教室と体育館の巡回診察.手書きのカルテで何の検査もなく,視触診,聴診だけの診察.患者は風邪,花粉と粉じんのためのせき,慢性疾患のDO処方が主だが,患者の手は荒れて腫れている.簡易トイレの手洗いの水がなく,アルコール消毒のためのようであった.衛生面からも,一日も早い上下水道の復旧が待たれたが,今はどうなっているのか.
また,私は産婦人科として,避難所での「性被害予防」,そのための「避難所での工夫」のパンフレットを避難所の看護師,責任者に配った.被災地が落ち着いた頃,精神的に不安定になり,イライラが募り,DVや性被害が多くなるという.大きい体育館の避難所には衝立もなく,女性の着替えにも困り,子どもが泣くのにも気兼ねをする状態.今後の災害避難所にはパーテーション,マットなどの備えが必要であろう.
四月七日には石巻市立病院が外来診察を再開し,渡波小学校にも電気がついたが,その夜,震度六強の余震があり,また市内は停電となった.この地震に遭い,支援者が被災者になる可能性を実感し,支援者の人選も考えるべき課題と思った.家族,未来のある若い医師でなく,まだ体力,気力もあるが人生に思い残すことの少ない団塊世代の活躍が期待される.また,災害後の医療も急性期から慢性期,介護に変わっていく.医療支援の仕方も変わっていくべきである.そのために,適材適所,適時の派遣には国の大きい時々刻々の調査と統括が必要と考える.
四月八日,朝早く一部通行止めの東北道を南に下り,福島空港,東京経由で広島に無事帰って来た.翌日から通常に診察.内診台があり,エコーを使える幸せを感じた.しかし,被災者の方が普通の幸せを取り戻すのはいつになるのか.祈るしかない.今後どこかで災害があれば,またJMATに参加したい.
(広島県医師会常任理事・日医広報委員 温泉川梅代)
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