|
第1197号(平成23年7月20日) |
JMAT(日本医師会災害医療チーム)活動報告(3)
宮城県石巻市における東京都医師会JMATチームの活動
避難所の教室で診療に当たる
三浦靖彦医師(三鷹市医師会・中央) |
|
東日本大震災における東京都医師会の災害医療チーム派遣は,震災直後からのDMATとそれに続く東京都医療救護班等の派遣,JMATとしての派遣に大別される.
DMATは三月十一〜二十日(福島第一原子力発電所に関するものは二十八日)の間,計十八チームが出動した.東京都医療救護班は六月三十日現在で計百四十六チームである.
JMATとしての派遣は,三月二十二日〜六月三十日まで,計九十九チーム,医師百七十六名,看護師百十三名,薬剤師二十九名,事務等百二十四名を数える.
JMATの派遣先は主に宮城県石巻市であり,原則三泊四日の期間で前チームと一日重なるように設定した.すなわち第一日目は前チームからの引き継ぎを受け,第四日目は次チームへの引き継ぎを行うこととなる.
班編成は原則として医師一名,看護師二名,事務一名である.宿泊地は,この付近の沿岸地域では唯一津波被害を免れた松島に,東京都医師会として継続的に部屋を確保した.
自分は,四月十七〜二十日,六月十三〜十六日の二回,多摩ブロックチーム医療班として石巻入りし,またそれ以外に現地視察や打ち合わせ等のため計六回ほど入っている.
四月の医療救護活動での担当エリアは旧北上川東地区で,石巻市内でも被災状況の大きな地域であった.その時点でもまだ電気,上下水道共に復旧していなかった.初日は,朝四時に東京を出発し,東北道を北上,渋滞している三陸道を抜け,災害救護本部がある石巻赤十字病院に入る.チームのメンバー登録と活動に関するオリエンテーションを受ける.新たな地震の際の津波の可能性と,その時は自己責任で避難することなどを聞き,被災地に入ったことを実感させられる.自分たちの活動拠点となる湊小学校に向かうと,進む程に被災程度が一気に上がった.
湊小学校のプールに
突き刺さっている車やがれき |
|
湊小学校の校庭はがれきの山であり,たくさんの車がプールや裏の墓地に突き刺さっている状態であった.診療活動は校舎二階の家庭科室で行う.他に日赤第七ブロック(九州沖縄地域)や岡山県医師会など計四チームで診療に当たる.湊小学校に避難している方は三百名余りで,午前中は全チームがここでの診療に当たり,午後からはこのエリア内に散在する約二十の避難所を手分けして巡回診療する.小さな社務所や葬祭場の二階などに数十人単位で避難している.それ以外にも一階が全壊している家屋の二階に住んでいる老夫婦などがおり,避難所地域の責任者やご近所の方からの情報は極めて重要である.
震災から一カ月が経ち医療の対象は,気道感染症や胃腸炎,高血圧や糖尿病など,実地医家が対応するものがほとんどである.しかし,いまだに生活環境や衛生面等医療以前の問題が復旧されていなかった.
医療活動と共に,各救護所の避難者数,食事,衛生状態,生活環境やはやっている疾病,小児科,婦人科,精神科等のニーズ調査などを行い,毎日対策本部に報告することも重要な任務である.このレポートを基に,石巻地区全体での避難状況や疾病状況が集計される.毎晩十八時からの本部における全体会議では,各エリアの状況報告がなされ,そこには行政も同席し,種々の問題に対して議論を行い,対応していた.
臨時診療室を離れ,避難所の各部屋を回ると,避難している方々からさまざまな体験談,苦労話を拝聴することが出来る.その方々が,「ぜひ,この被災地の状況を見て行って欲しい」と話されたことは印象に残った.また,治療を中断している多くの高血圧や糖尿病,高脂血症の方を見つけることも出来た.
昼食時に車中で弁当を食べながら回った石巻港周辺や女川などの被災状況には言葉を失った.しかし,各避難所で見た明るく前向きな避難者の方々の姿や,復興に対する全国からの温かい応援メッセージには救われる気持ちがした.
たった四日間程の医療活動でどれだけ現地に役立ったのか自問しているが,自分としては多くのものを学び,そして考えさせられた.この尊い犠牲の上に得た経験を,組織として個人として生かさなければならないと強く思っている.
(東京都医師会理事 角田 徹)
|
日本医師会ホームページ http://www.med.or.jp/
Copyright (C) Japan Medical Association. All rights reserved.
|