日医ニュース
日医ニュース目次 第1257号(平成26年1月20日)

<新春対談> 横倉 義武会長・三浦 雄一郎氏
“攻めの健康法”で健康寿命を延ばし社会に支えられる側から支える側に

 新春に当たり,昨年五月,世界最高峰エベレスト山(標高八千八百四十八メートル)に八十歳で三度目の登頂を果たし,世界最高齢登頂記録を更新された,プロスキーヤーで冒険家の三浦雄一郎氏を迎え,心臓手術や骨折を乗り越えてのエベレスト登頂までのエピソードや,元気な高齢者のための健康法等について,横倉会長と語り合っていただいた.

<新春対談> 横倉 義武会長・三浦 雄一郎氏/“攻めの健康法”で健康寿命を延ばし社会に支えられる側から支える側に(写真) 横倉 三浦先生はプロスキーヤーとして,これまで多くの活躍をされていますが,私のスキーとの出会いをお話しすると,私は,福岡県出身であまり雪に縁がない所で育ったのですが,中学校の時,叔父に長野県の八方尾根へ,高校に入ってから,野外活動を指導して頂いていた先生に鳥取県の大山へスキーに連れていってもらったりしているうちに,県民体育大会に出なさいと言われて出たら一番になりましてね.その後,国体に何度か出場し,非常にスキー大好き人間になりました.
 三浦 それはすごいじゃないですか.
 横倉 昭和三十八年ごろで,三浦先生がイタリアの“キロメーターランセ”(スキーアルペン競技の一つ.一キロメートルの直線コースを滑降し,途中百メートルの計測区間内で平均速度の最も速い者が勝者となるスピードスキー)に日本人として初めて参加し,世界新記録を出された頃と重なると思います.
 三浦 ちょうどスキーブームの頃ですね.
 横倉 お父上の三浦敬三先生の『雪とともに─わがスキー人生八十年』という本を読み,八甲田山などにも憧れをもっていました.著書によると,子どもの頃からお父上に連れられてスキーをされていたのですね.
 三浦 ええ.父は営林局に勤務する公務員で転勤が多かったのですが,スキーと写真に熱中して,百二歳まで元気でした.
 横倉 キリマンジャロも親子三代で.
 三浦 ええ,家族で滑降しました.父親は九十九歳でモンブランからスキー滑降をやりました.
 横倉 モンブランは非常に距離があるのでしょう.
 三浦 モンブランからシャモニーの方につながる二十五キロくらいの大きな氷河です.
 父は,よく「元気だからスキーをやるのですね」と言われていたのですが,「スキーをやるから元気になるのだ」と言って,かえって「年を取ったからやろう」ということでした.実は,九十歳を過ぎてから三回骨折したのですが,治ればモンブランを滑れるとの一心で,右足が折れていたら左足で屈伸するとか,食べ物やサプリメントなど,いろいろ工夫して骨折を治し,白寿でモンブランを滑りました.
 横倉 日本の平均寿命は世界でトップクラスになりました.しかし,いわゆる健康寿命と平均寿命の間に十年近くある.超高齢社会を迎え,この健康寿命を何とか延ばしていかなければならないと考えています.
 三浦 父の場合は,母が八十歳で亡くなった後は完全に自立して生活していました.
 横倉 それで,その後も社会貢献されたわけですね.
 三浦 スキーを教えたり,いろいろやっていました.
 横倉 普通,年を取ると,社会にサポートをしてもらう.けれど,健康であれば,逆に社会を支える側に回れるので,私は,「社会に支えられる側から支える側になるためにも健康寿命を延ばしましょう」と提唱しているのですが.
 三浦 それが医学の一番大きな目的ですね.
 横倉 それを体現してもらったと思います.

世界七大陸最高峰のスキー滑降完全制覇とその後

 横倉 世界七大陸全ての最高峰をスキー滑降されました.確か,エベレストもサウスコル(South Col:世界最高峰のエベレストと世界第四位の高峰ローツェとの間にある鞍部(あんぶ))から降りられましたよね.
 三浦 ええ.一九七〇年,大阪万博の年でした.石原慎太郎さんに頼んで,弟の裕次郎さんの石原プロを総動員して,エベレスト・サウスコルのスキー滑降の記録映画[THE MAN WHO SKIED DOWN EVEREST]を撮り,アカデミー賞を受賞しました.アメリカ合衆国第三十九代大統領のジミー・カーターさんが,英語版のフィルムを見たら,勇気,元気がわいてきたということで,四年間の任期中二十回ほどホワイトハウスの映写室で見たと言っていました.
 横倉 八十歳でのエベレスト登頂も,非常に勇気を与えていただきました.
 三浦 元気をもらったという言葉をずいぶんいただいて,やったかいがあったかなと思っています.ただ,僕も六十代の初め,ある意味で燃え尽き現象があり,メタボになってしまったのです.
 僕はスキーが出来るからという理由で北大に入りました.その当時,単純に,獣医学部へ入ったら,実験が終われば焼き肉が出来るといった程度で潜り込んで,二十歳の頃から焼き肉食べ放題,ビール,焼酎飲み放題をずっと続けたわけです.まだ,現役の頃はよかったのです.
 横倉 カロリーが消費されますからね.
 三浦 ところが,六十近くなって,住まいのある札幌に帰ると,皆を集めてジンギスカンとか焼き肉のパーティーだと.あっという間に体重が増え,身長一六四センチなのに体重が八十八キロと,完全なメタボです.階段を上るのに息切れがし,狭心症の発作が出るようになりました.明け方,布団の中で心臓が何かにガンとつかまれたような痛みがあり,十分ぐらい我慢していると,すっと取れてしまうので,病院へ行こう行こうと思いながら,怖かったのです.
 それが,たまたま家内が膝を痛め,札幌と小樽の中間にある札樽(さっそん)病院(びょういん)の多田武夫院長が先輩なので,家内を玄関で引き渡してと思って行ったら,逃げる暇もなくつかまって,血液だ,おしっこだと.
 横倉 ええ,検査で.
 三浦 三週間後,院長室へ行ってみたら,一覧表の数値が赤字だらけで.本当は入院治療が必要だったのですが,家へ帰って一晩考えますということで,もう一度運動習慣をつけ,飲み過ぎ,食べ過ぎを控えることにしたのですが,何か目標がないとつまらない.当時,父が九十九歳でモンブランを滑り,下の息子がオリンピックに二回出ていました.
 横倉 豪太君ですね.
 三浦 ええ.親父と息子が頑張っているのに,お腹出してフーフー言っているのはみっともない.それで,六十五歳の時に,親父がモンブランなら,俺は七十歳でエベレストに登ってみようという目標を立てました.
 ところが,家のすぐ裏にある標高五百三十一メートルの藻岩山に登ったら,途中で脂汗が出て足もつり,中腹から帰ってきてしまう状態で.どうなるだろうと思ったのですが,メタボを解消してエベレストに登れたら逆に面白いんじゃないかなと考えたわけです.
 横倉 メタボを克服して,エベレストにね.
 三浦 仕事が忙しくトレーニングに専念出来ず,膝を痛めてジョギングも出来なかったので,とりあえず足首に重りを付け,背中にザックを背負って歩いてみようと考え,一年目は足首に一キロ,背中に五〜十キロで,一日平均一時間ほど歩いているうちに,薬の効果もあり,半年ぐらいでメタボが改善されたのです.二年目以降少しずつ増やし,最終的には片足に十キロ,両足で二十キロ付けて,背中に三十キロ背負って歩いたら,膝や腰の痛みも全部治って,結果として七十歳でエベレストに登ったわけです.
 ただ,エベレストの四千メートル地点で不整脈がひどくなり,人事不省に陥って,立ちくらみのひどい状態でした.その日の行く先だった,東京医科大学の山岳部の先生方がつくり,世界各国の山好きなお医者さんが交代でボランティアで運営しているエベレスト高山医学研究所にようやくたどり着いて,名前を書いて診てもらったら,「これは相当ひどい」と.僕の顔をじっと見て,「あなたはエベレストを滑ったミウラか」「そうだ」と答えたら,この先生が,「エベレストを滑ったヒーローだったら,一週間分の下痢止めで何とかなる」と言うのです.
 横倉 特別な治療はしないで,登れということですか.
 三浦 暗示にかかるというか,この言葉で,ああ,俺大丈夫なのかと.それで,とうとうエベレストを登ってしまいました.

四度の心臓手術,骨盤・大腿骨骨折を乗り越えて

<新春対談> 横倉 義武会長・三浦 雄一郎氏/“攻めの健康法”で健康寿命を延ばし社会に支えられる側から支える側に(写真) 横倉 メタボを初めに指摘した札樽病院の先生が,かかりつけ医なのですね.
 三浦 先輩で,うるさいくらい言われます.でも,そのおかげですね.
 横倉 エベレストの最後のサウスコルから頂上に上がる時,ものすごい壁があるのでしょう.
 三浦 ええ.エベレストは登れば登るほどきつくなるのですが,ある程度トレーニングしたので.ただ,冠動脈は相当詰まっていたと思うのです.
 横倉 特にそれを広げたり,ステントを入れたりはしなかったのですか.
 三浦 帰ってからということにして.ただ,この時は,ベースキャンプから頂上へ行って帰るまでの十日間で体重が十キロ減りました.日本に帰ったら,いろんな無理が体中に出て,特に不整脈がひどくなり,茨城県の土浦協同病院の家坂義人院長にカテーテルアブレーションの手術をしていただいたのですが,心臓が変形していて一回では無理だということでした.その手術で非常に良くなって,ヒマラヤへ行ったら,今度は五千四百メートルぐらいで歩けなくなり,帰って二度目の手術をし,七十五歳でエベレストに登りました.
 横倉 それが二回目ですね.
 三浦 パリでの心臓医学会で,家坂先生が,「カテーテルアブレーション手術をして,ミスターミウラはエベレストに登った」と言ったら,三千人以上の心臓外科医・内科医がスタンディングオベーションしたそうです.人類の新記録であり,医学の素晴らしい進歩ということで,本当にそのおかげだったのですけれど.
 横倉 そして今度は,八十歳でまた.
 三浦 ええ.不整脈は大分良くなって,札幌でスキーをしていた時,ジャンプで失敗し,天井くらいの高さから凍った道路に腰から落ちて,左の大腿骨の付け根と右の骨盤が四カ所,恥骨まで割れてしまったのです.七十六歳でした.
 横倉 七十六歳で骨盤骨折などされると生命の危機ですよね.
 三浦 すぐNTT東日本札幌病院へ救急車で運ばれたのですが,北大から安田和則教授(運動機能再建医学分野)が来てくれて,手のつけようがないので手術せずに五カ月くらい経過を見ながら,どうするかを決めようということになりました.命は取りとめたけれども,多分,寝たきりか,うまくいって車椅子という状態でした.
 そのうち,毎週チェックしていた先生が頭を傾げ始めて,「おかしい,骨がつき始めている」と言うのです.当時の骨密度は二十代,おまけに重いザックを背負って歩くトレーニングのおかげで筋肉が復活していた.つまり,骨が丈夫だった上に,単純骨折で,筋肉の力で戻しつつあるというわけです.それも中高生並みの速さで骨がつき始め,二カ月半で軽いリハビリを開始し,一年足らずでストックなしで歩けるようになりました.
 横倉 大腿骨の付け根の骨折の場合,普通は,釘を打つなどの手術をしないとだめなのですけれどね.しかし,すごいですね,その若さは.
 三浦 ただ,その後また大失敗があって,最後のトレーニングとして,一昨年の十一月に,ヒマラヤのロブチェ東峰(六千百十九メートル)へ遠征した時,虫歯が引き金になって高山病がひどくなり,五千三百メートルで意識不明になりかけました.そこで日本で急遽,家坂先生の手術を受け,負荷をかけて歩き始めたら,暮れにインフルエンザにかかり,不整脈が起きて病院に担ぎ込まれ電気ショックをやってもらって,いつ死ぬか分からない状態になりました.それで,昨年の一月十五日,四度目の手術.今度は出発まであまり時間がないので,今までの定番のルートとスケジュールを全部ゼロベースにして,再発しないように徐々に登る方法はないかと一生懸命考えていた時,「年寄り半日仕事」という諺を思い出したのです.例えば四千から四千五百メートルまで行く時に,夕方着く頃には皆フラフラなのですが,それを半分にしてお昼に到着した所に泊まれば,昼寝も出来るし,散歩や読書をして半日過ごすと疲れが少なく夜もゆっくり眠れる.これを一カ月余り繰り返し,五千三百メートルのベースキャンプに着いた頃は,いまだかつてないぐらい元気で,結果として心臓のリハビリにもなった.
 もちろん,日本人で初めて国際山岳医の資格を取って,登山家であり,かつ心臓の内科医でもある,大城和恵先生(心臓血管センター北海道大野病院)がチームドクターとして一緒に行ってサポートしてくれましたので…….
 横倉 かかりつけ医を連れてエベレストに登ったということですね(笑).今回は,降りるのが相当きつかったみたいですね.
 三浦 原因を後で考えると,夜中の一時に小さなおにぎりを一個食べただけで十四時間ぐらい.
 横倉 低血糖を起こされたのでしょうかね.
 三浦 全力を尽くして山頂に着き,酸素マスクを取って交信したり写真を撮ったりで,合計一時間ぐらいいたために,ハンガーノックといいますか,低血糖と酸欠のため帰りがフラフラ状態で,八千五百メートルのキャンプまで這うようにして戻り,お湯を沸かし蜂蜜などを入れて飲み,きな粉,黒砂糖,ナッツやドライフルーツなどを混ぜたスペシャルケーキを食べて,また力が出てきて,やっと八千メートルまで降りたということです.
 横倉 しかし,とても八十歳には見えないくらいお若いし,いろいろなものにチャレンジされるその情熱というのは素晴らしいことと思います.
 三浦 そうですね.一番大きいのは,自分自身がエベレストに登ってみたいということですが,もう一つは,アンチエイジングの象徴的なイベントとして,地球上で最も高く条件が厳しい,デスゾーンだけの場で七十歳でも八十歳でも出来たら,もっと元気に出来るのではないかなと.あるいは,常に目標を持ち,百歳でもスキーをやっていた父を超えることにもなるのかなと.
 横倉 それで,皆に元気を与えて頂いています.
 三浦 高齢になって不整脈や骨折,狭心症などを治してきたことの方が大きいです.僕が七十歳で登ろうと思った一年半前に受けたカテーテルアブレーション手術ですが,その十年前には家坂先生がまだ渡米中で出来なかったわけで,医療の進歩のおかげであり,日本が世界最先端の医療をもっているおかげです.

目標を持ちチャレンジする生き方を

 横倉 最後に,今後,元気な高齢者をいかに増やすかということなのですが.
 三浦 僕は,健康法には,“守りの健康法”と“攻めの健康法”があると思うのです.守りの方はウオーキングとか食生活ということで,健康に年を取っていけるわけですが,骨密度や体力はそれなりに落ちていきますよね.
 ところが,七十になっても富士山に登ってみようかとか,ゴルフで飛ばしてみようかとか,何か目標をつくる.僕の場合,エベレストに登ろうと思って,負荷をかけトレーニングした.これを,“攻めの健康法”ととらえているのですが,高齢者も積極的に自分で何か目標を持つべきだと考えています.
 横倉 目標,生きがいをつくるということでしょうね.
 三浦 生涯現役という言葉もありますが,いくつになっても目標を持ってチャレンジしようという気持ち,生き方ですね.
 横倉 年を取ると,どうしても守りに入ってしまいがちですね.
 三浦 エベレストでは酸素濃度が平地の三分の一になり,登山医学会の計算では,七十歳加齢されるので,二十歳の登山家がエベレスト山頂に登ると,九十歳の体力年齢になると言われています.八十歳で登ったということは,単純計算で百五十歳,現存の人類で生きている人はいない.体力年齢を戻さない限り到底登れないわけです.僕の場合は,“攻めの健康法”,アンチエイジングで,負荷をかけてトレーニングし,四十代の体力,二十代の骨密度,筋肉も三十代まで戻せたということです.そういう“攻めの健康法”的なスタイルを高齢者の人たちが積極的にやれればと思います.
 横倉 これから支える方が少なくなりますから,支えられる方を出来るだけ少なくしないといけないと思うのです.
 三浦 僕の父親が一番いいロールモデルになっていますけれども.
 横倉 そうですね.
 三浦 まさに“ピンピンコロリ”でした.最期は,春スキーに行って,五段ぐらいの雪の階段を下りた時,最後の階段が崩れて,背負ったスキーで第二頸椎を損傷しました.手足が折れたのなら,自分で治して,百十歳までスキーが出来たと思います.これだけは寿命でしょうがないと思うのですが,人間というのは,百歳でもこんなことも出来るという親父のモデルがあるので.僕はそこまで行けるかどうかは別としても(笑).
 横倉 今後もぜひ頑張って下さい.本日は,ありがとうございました.


三浦 雄一郎(みうら ゆういちろう)氏
プロスキーヤー,冒険家

 1932年10月12日青森市生まれ.北海道大学獣医学部卒業後,1964年スキーのスピード記録を競うイタリアのキロメーターランセに日本人として初めて参加,時速172.084キロの当時の世界新記録を樹立.1966年富士山直滑降.1970年エベレスト・サウスコル8,000m世界最高地点スキー滑降(ギネス認定)を成し遂げ,その記録映画はアカデミー賞を受賞.1985年世界七大陸最高峰のスキー滑降を完全達成.2003年次男(豪太氏)と共にエベレスト登頂,2013年80歳で3度目のエベレスト登頂〔世界最高年齢登頂記録更新〕を果たす.一方,全国で1万人以上が在籍する広域通信制高校,クラーク記念国際高等学校校長としても活動している.

このページのトップへ

日本医師会ホームページ http://www.med.or.jp/
Copyright (C) Japan Medical Association. All rights reserved.