学生時代の同級生だった夫との間に3つ違いで2人の男子を授かった。
休職したのは1人目も2人目も「産前6週・産後8週」の産休期間のみ。子育てのために一時的にでも仕事を休むという選択肢は全く頭をよぎらなかった。当然そのしわ寄せは親世代の家族へ。そして、もしかしたら子ども達にも及んでいたのかも知れない。
長男誕生から次男出産直後まで、実家の近くにマンションを借りて、母に子育てを手伝ってもらった。母は専業主婦。べったり頼り切っていた。出勤前に子ども達を母に預けて、仕事帰りに引き取りに行った。もちろん近くの保育園へは母が送り迎えをしてくれた。
しかし、実の母ゆえに遠慮と配慮が欠けていたのかも知れない。ある日言ってはならない一言を言ってしまったようで、猛然と母が怒り出した。手が付けられない程に。そして我々は放り出された。母のストライキが始まってしまった。
次男は当時3カ月児であり保育園は6カ月を超えていないと預かってくれない。途方に暮れていたところ、既に現役を退いていた父が助けてくれた。父は本がありさえすれば、どこでも書斎になってしまう。朝、出勤前にマンションに来てくれて長男を保育園に送り、次男の子守りをしてくれた。あの時の父の助けがなかったら破綻していたであろう(今は亡き父に合掌)。
そうこうしているうちに少しずつ母の態度が軟化して、いつの間にか元の鞘に戻ったものの、母からはやんわりと夫の実家を頼るように仕向けられた。長男が4歳を迎える頃、夫の実家を二世帯住宅に改築して藤沢に転居してきたのである。私の勤務地は東京広尾で通勤はつらかった。
当初、義母は張り切っていた。私を助けてくれる気持ち満々だった。しかし数十年ぶりの子育てに疲労と困惑が重なり、パニック寸前だったという。そこへ義母の母、子ども達のひい婆ちゃんが登場。田舎から所用でやってきたところ、しばらく滞在して手伝ってくれた。義母も落ち着きを取り戻し、何とか良いペースで回るようになった(今は亡きひい婆ちゃんに合掌)。
しかし、全くもって行き当たりばったり。「カブはなかなか抜けません」の話をご存知だろうか。まさにそれを地でいくような一家総動員の幼少期子育てだった。
次男が小学校に入学する頃、知り合いから開業の話が舞い込んだ。まったくその気が無かったが、通勤に疲れていたこともあり、そして何より子ども達と触れ合う時間が増えるに違いないと思い、決意した。ところが、折しも花粉症最盛期の時期に開院したこともあり、午後の患者さんをさばききれず、帰宅すると9時近くになることもあった。子ども達からはブーイング。当然、義母も内心つらかったのではないだろうか。
これ以上の迷惑は掛けられないと、味噌汁の冷めない距離を保ちつつ、一戸建てに転居して家政婦さんに来てもらい、学校帰りの子ども達を迎えてもらった。しかし、基本的には子ども達は野放しで、教育にはまったく手が回らなかった。
ところが、ある時、次男のランドセルの中から、小テストの解答用紙が出てきた。何と1ヘクタールの平米換算ができていないのである! これはまずいと問いただすと、どうやら担任の女教師からいじめを受けていたようで、ろくに物を教えてもらっていなかったらしい。後に教育委員会付けで再教育となった問題の教師であったが、子ども心にトラウマとなり、次男は松茸以外のきのこが食べられなくなった。女教師のマシュルームヘアを思い出すからだという。
公の教育に少々疑問を感じ始め、次男の希望もあり、お受験のため塾へ通わせた。小学5年生の秋である。間に合いっこないと思っていたが、運よく入れてくれる学校があった。以後男子校でのびのびとぐれることもなく、本当に運良く地方の国立に引っ掛かり、医学生となった。ヒップホップダンスに興じ、「踊る研修医」を目指すという。
さて、長男はというと、まさに放し飼い。スポーツ三昧(ざんまい)の日々を過ごしていた。高校に入学する頃、友人の息子の東大生を預かることになった。最も、この東大生、アメリカ人を父にもつハーフで、モテるせいか遊び過ぎてキックアウト寸前。学費稼ぎにクリニックの受付に雇うことになったのである。長男はこの学生に感化されたのか、反面教師で危機感を持ったのか、このままでは落ちこぼれると高2の時に留学生試験を受けて、親の反対を押し切り、1年間アメリカへ行ってしまった。
17歳の多感な時期に見も知らないアメリカ人夫妻に預けることになったのである。その間、親は会いに行ってはならないという。しかし、「可愛い子には旅をさせろ」とはよく言ったものである。
帰国後は、嫌がっていた医学部入学を目指すと、文字通り一から勉強をやり直した。その甲斐あってか、こちらも運よく医学部に引っ掛かり、昨年、医者になった。「親は無くとも子は育つ」の典型かも知れない。
振り返ってみると、自分の都合で周りの家族を随分と振り回してきたものだ。「運良く」はわが家のキーワードかも。その間夫から「仕事をやめたら?」などと言われたことは一度もなかった。感謝かな。しかし、この両親、子ども達の目にはどのように映っていたことやら。手を掛けてやれなかったということは、子ども達も親を当てにできないと感じていたのかも知れない。
さて、子ども達も片付き自分のことを見つめ直してみると、どうやらワーカホリックであったらしい。正月休みや夏休みの後半は仕事のことを考えてそわそわする。日々の外来も空き時間でもあろうものなら、リズムが乱れてストレスを感じる。
こんな自分だから、これまでの人生いろいろ反省するところはあるが、結局これ以外の子育ても生き方もできなかったのだろうなと思っている。よかったのか、悪かったのか? きっと答えは家族それぞれの胸の内にあるのだろう。
(一部省略)
神奈川県 藤沢市医師会報 第475号より