秋。つまり、医師として働き出してようやく半年である。私はいわゆる再受験組であり、大学には2つ合わせて10年通った。さぞ向学心に溢(あふ)れたナイスガイかと思われるだろうが、その判断はお任せする。
とにかく私が最初に通った大学は外国の言葉・文化を学ぶことに首座を置いた大学であった。中でも私はスペイン語専攻であり、ラテンの風が入学前から何とも胸をくすぐる。またその大学は23区外とは言え東京にあったため、上京を前に広島産のじゃがいもボーイ(JB)、当時19歳の私は浮かれていた。「東京で英語も話せるようになれて、スペイン語も勉強できてラッキー!」
しかし、そんなJBにも大きな誤算があった。それは入学式で発せられた学長の一言、「ここは単なる語学学校ではありません。英語を話せるようになりたい人は駅前留学をして下さい」
笑っている帰国子女達を横目に私は冷や汗を流していた。「ここに来たら英語を話せるようになるんじゃないんですか......?」現実は残酷で、入学の時点で既に英語がぺラペラの人が大半だった。そう、ここは英語が既に使えるレベルの人達が集まり、その先を目指す場所だったのだ。よく見たら大学のグラウンドでは白人と黒人が叫びながらボールを蹴っている。異文化コミュニケーション? よく分からないが飛び込んでみる。結局その大学で学んだことは唯一、「どこの国の人だろうと気合で何とかなる」であった。
その後いろいろあって医師の道を志したのだが、そんな教訓しか持ち帰らないくらいなので英語に関しては今も話せるというレベルにはない。しかし、会う人会う人、私の出身大学を聞くや、「じゃあ英語ぺラペラなんだね!」と仰(おっしゃ)られる。サッカーが苦手なブラジル人はこんな気持ちだったのか。最初はちゃんと事実をお伝えしていたが、徐々に否定するのにも疲れて、「ええ、まあ......」もちろん、一つも英語の勉強はしていない。
そうして晴れて医師になれたわけだが、相変わらず私は「英語を話せそうな人」というポジションを堅持していた。働き出してしばらく、先輩医師から「外国人の患者さんが来たら池田に診てもらえるから助かるなあ」と言って頂くこと多数。ひたすら心の中でわびる日々であった。
そんなある日、ついにエックス・デイは来た。
「オウ、アイムフロムベルジャン」
ベルジャンがべルギーのことだと分かっただけでも自分を褒めたい。それくらい打ちのめされたデビュー戦であった。この半年間、反省することはそれこそ星の数ほどあったが、これも一つ忘れられないものとなった。
やはり気合だけではいかんともしがたいことはある。できないことを認め、できるようにするしかない。研修医として基礎を身に付けるのはもちろんのことだが、下半期は英語の勉強もがんばろうと思う。