少年期を大陸で過ごした私にとって、「冬の思い出」と言えば、真っ先に浮かんでくるのはあの厳しい寒さである。
私のいた西安も、冬は連日、零下20~30度に下がった。
零下20~30度と言えば、小便がすぐ凍り、道行く老人のあごひげや、牛馬の口の周りにつららが垂れ下がった。そして、川という川は皆、1メートルほどの深さまで凍り、その上を、人や牛馬が通る立派な道になった。
こんな寒さの中を、私達は毎日、3キロメートルほどある学校へ通った。家を出る前には、身につける物は全て、ストーブの周りに置いて暖めておくのだが、それが効いているのは、せいぜい1キロメートルほどだった。
1キロメートルを過ぎると、手足の指に痛みが走り出し、それが次第に強まって、千切れそうな痛みに変わってくる。それでも、泣くまいと必死に耐えるのだが、やがて涙が一粒、ぽろりと落ちて頬を伝うと、それを合図のようにして、後はとめどなく流れ落ちた。
そして、こらえにこらえていた声が、くぐもったように口をついて出ると、後はもう、恥も外聞もなく大声を上げて泣き叫んだものだった。低学年の間は、これが冬中、日課のようになっていた。
こんな体験をした人間のくせに、わずか、零下1、2度ほどに下がる日本の冬に、いじけて寒がる自分に不思議な気がする。
無論、順応と適応によることは百も承知しているのだが、どうやら私も日本人になってしまったんだと、ひとり苦笑している。