わが家の寝間の壁には、一枚の油絵が掛かっている。赤い花弁に、白の模様のある藪椿を、備前焼きの徳利(とっくり)に挿している絵だ。
これは、父の残した数少ない油絵の一枚である。この絵を眺めると、驚くほどに、緻密に描かれている。中心に黄色の雌しべのある大輪の花弁と二つの蕾(つぼみ)が描かれ、色も鮮やかだし、葉の光沢まで明瞭で、父の几帳面な性格と充実した心境を彷彿(ほうふつ)とさせるのである。
これは、父が何歳頃に描いたものだろうと、当時の事を思い返した。
確か、父が油絵を描き出したのは、地方公務員を退職した60歳を過ぎてからと聞いた。現役中は、父が絵を描いている姿を見掛けたことは、一度もなかった。しかし、油絵を習いに行ったとも聞かなかった。独学でいきなり描き出して、ここまでの絵を完成させるとは、それだけでも大したものだと、今頃になって感心する。
私が大学を卒業してしばらくした頃、時に実家に帰郷すると、母から、最近父は、農作業が暇になると納屋の隣部屋に籠(こも)って、油絵を描いていると聞いた。その後、居間に何枚かの油絵が立て掛けてあるのを見るようになった。
父は91歳で亡くなっているので、油絵を描いたのは60歳からの20年間位であったはずだ。
父は、戦後すぐの貧困の時代に、地方公務員の仕事をしながら、わずかばかりの田畑を耕して、私達5人兄弟を育ててくれた。公務員の給料は薄給だったので、家族が食べるだけでも大変だった。それでも両親は、子ども達には学問を身につけさせようと、男兄弟は大学に、女兄弟でも高校まで卒業させてくれたのだった。
貧困の生活を脱け出して、やっとゆとりのある生活ができ出したのは、子ども達が社会人となる、定年を過ぎた頃だった。退職金でやっと茅葺(かやぶき)の母屋を新築することができ、油絵でも始めようと思ったのだろうか。
その後、私も当地に家を新築したので、父は秋の太鼓祭りになると、重信から一人でバスに乗りやってきた。新居浜の太鼓見物が楽しみで、1週間はわが家に逗留(とうりゅう)した。
家内の手づくりの魚料理等を「旨い旨い」と言いながら食べ、小さな徳利の酒を飲みながら、皆と談笑したものだ。太鼓祭りが終わっても、すぐに帰らなかったのは、居心地が良かったのであろう。
昼間は退屈なので、スケッチブックに庭や山の風景や草花を水彩絵の具で描いたりして過ごしたようだ。椿の一枚もその頃、わが家で描いたものに違いない。
私も、その頃の父の年齢に近づいた。70歳過ぎの父は、米や野菜、山のミカンを出荷し、バリバリ働いており、その合間に油絵を描いていた。あの時代が、父にとって一番充実した頃であったろう。
私も、今は図らずも、現役と同じように診療所所長として、重責を荷(にな)っている。いつまで働けるだろうかという不安もある。だが、この歳まで働かせてもらえることに感謝する日々である。
父の油絵を眺めながら、同年代を過ごした父のように、充実したいものだという思いが込み上げてきた。そして、残りの人生が悔いのないものになるよう願っている。