小学5年生の時であったか、夏休みの自由研究で野に咲く花々の押し花標本をつくったことがあった。毎年この自由研究に悩まされ、夏休みも終盤近くになってからあたふたと慌てて泣きが入るのは、古今東西を問わずに見られるおなじみの光景かも知れない。
とにかくこの年も残りの休みが乏しくなってきた頃に、ようやく重い腰を上げて取り組んだ。近くの里山で花を採集してきて押し花にし、後は父親にその名を尋ねて書き込めば一丁上がりだ。植物分類学などという、一体何の役に立つのか分からない学問を専門にしている父親も、この時ばかりは役に立つ。そんなふうに考えていた。
押し花標本をつくるには根気が必要だ。まず採集してきた標本を形良く整えてから古新聞に挟む。その上に何枚か更に古新聞を重ね、上に重石を乗せる。当時、わが家には百科事典やらランダムハウスの英和辞典、そして国語、古語辞典と大きな本があふれており、これを何冊も上に重ねて重石にしていた。考えてみれば、これらの辞典類、引いて知識を増やしたことよりも、標本づくりの重石として利用したことの方が圧倒的に多かった。あの頃、これら万巻の書物を読破していれば、私も今のような凡庸(ぼんよう)な人間ではなかったはずだ。残念至極。
さて、1日放置すると標本からにじみ出た水分で古新聞はしっとりと湿っている。毎日この湿った新聞を入れ替えてやらないと、カビが生える。しょっちゅう忘れる息子に代わって、父は淡々とテレビを見ながら新聞交換を行うのだった。
ある日、標本の出来具合を見ていたら、父がのぞき込んでこう言った。「葉っぱと根っこはどうした?」確かに私は植物の花だけを切り取ってきていた。葉っぱは申し訳程度で、根っこに至っては土もついていて汚いし、虫も一緒に出てきそうで嫌だった。そんなことをもぐもぐと言い訳したら、父はそれ以上何も言わずに「そうか」とだけつぶやいてその場を離れた。
何だ、せっかく褒めてもらえると思ったのに。そんな思いをぐっとこらえて、その後父の協力というか、全面的に教えてもらって標本に植物の名前を付け、ついでに当時少しだけ興味をもち始めていたカメラで撮影した植物の写真を隣に貼りつけて、研究は完成した。
この標本は好評を得て、夏休み明けの発表会か何かに出展され、何と仙台市科学館館長賞を受賞した。一目散に帰宅してそのことを報告すると、父は柔らかくほほ笑んで、「そうか、良かったな」とだけ口にして、褒めるでもなく、うれしそうでもなかった。その姿に何だか拍子抜けしてしまい、その後の自由研究も泣かず飛ばずに終わった。
時は流れて数十年後、父は退職して植物ガイドのようなボランティア仕事をするようになった。植物愛好家が自ら作成した標本を持って訪ねてくる。その植物の名前、特徴などを教えていたのだが、その頃父がある雑誌に載せていたエッセーを読んで衝撃を受けた。そのエッセーには次のような一節があった。「植物種の特定は花だけでは難しい。その葉、根に特徴がある場合も多く、標本を作製する際には花だけではなく、葉と根も必ず残すようにしたい。葉っぱも根っこもない標本を見せられたら、私は根も葉もないことを言いますよ」。
これを読んで私は目頭が熱くなった。あの時、父は植物分類学者として息子に標本づくりの基本を教えたいと思ったはずだ。しかし、あまりうるさく言うと私がへそを曲げてしまうと考えたのかも知れない。確かにガミガミ言われたら、きっと私は途中で標本づくりを投げ出してしまったに違いない。あれは父なりの優しさだった。
その父も92歳を迎えた。この頃はすっかり恍惚(こうこつ)の人となり、昨年には膵臓がんが判明した。植物の名前を尋ねても、「はて何だったかな? 忘れたなあ」と返すことがめっきりと多くなってきた。あれだけ豊富であった知識が失われていく。仕方がないことだと分かっていても、何とも寂しい。そんな思いもあって、僕は最近散歩の途中で出会う植物の名前を調べ、植物を勉強したいと思うようになったのである。それは、やがてこの世から旅立つ優秀な植物分類学者であった父親に捧げるオマージュなのかも知れない。
(一部省略)
宮城県 仙台市医師会報 No.648より