医局4年、病院勤務4年、開業医38年、老健施設勤務13年を経て87歳になった。3人の子どもは自立し、とっくに夫婦二人暮らしが続いている。
老健勤務2年目、易疲労感で受診したら、Hb.6・2g/dlの貧血で横行結腸がんと診断され、当時の成人病センターで手術を受けた。何より、病室まで毎日9時頃に見舞いの新聞を届けてくれる妻がありがたかった。
術後数日して、新聞と妻が待ち遠しくて、道路を見下ろす3階廊下の窓辺で待機するようになった。自宅から病院まで歩いて17分の距離を、短い足でゆったり来る姿を通行人の中から見つけると、後光が差して見えた。
この恩に報いるため、妻の欠点は見ず、ひたすら褒めることにした。例えば食事、「今日は、特においしかった」「これは一流店よりうまい」「わが家の料理が一番」......考えつくだけのお世辞を並べる。
妻は「あなたの口に合うものを出すから」と返事するし、機嫌もいい。今更、「豚もおだてりゃ、木に登る」との格言の効果を知った。
少しして、平成19年、自覚症状のないまま年だからと検査したPSAが204・5ng/mlだった。この数値の意味を妻に説明したら、「仕方がない」「なるようにしかならない」と第三者の意見だった。愚考するに、開業中、背部脂肪肉腫で手術をしていたことがあって、妻に悪性腫瘍に対する恐れをなくさせたのか。
また、昭和時代の私の座右の銘は、秋田高校の校是「質実剛健(しつじつごうけん)」であった。それが、平成になって妻のモットー「明日は明日の風が吹く」に染められてしまった。
いつの間にか令和になった。米寿を過ぎて退職すれば、携帯電話の鳴らない憧れの自由な世界に入る。何年か前、老後は"晴耕雨読(せいこううどく)"の可能な土地を探そうと提案したことがあった。妻からは、①長男夫婦や友人と離れるのはイヤ、②7回目の引っ越しはもうイヤ、③駅や公園に近く、鳥海山が晴れた日は丸見えのこのマンション8階の部屋が気に入っている―と却下された。
お互いに健康寿命を保っていれば、温泉大好き人間の妻がよだれを垂らしそうな未知の湯布院、道後、有馬、登別等々の温泉めぐりをしようと決めている。
総括すれば、昭和は私、平成は妻が主導権を持っていた。