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令和2年(2020年)8月5日(水) / 南から北から / 日医ニュース

ヒグラシ

 妻が気に入っているということで、もう何年も前から、とある温泉地のホテルに宿泊するようになった。
 初めの頃はちょっとした骨休めのつもりで、自分も一緒に出掛けていた。それがある年、梅雨が早めに明けた7月中旬のことである。露天浴場でひと風呂浴びた後の夕暮れ、客室のべランダで本を読みながら涼んでいたところ、小川を挟んだ向かい岸の樹林から、一斉にヒグラシの鳴き声が聞こえてきた。それも1匹や2匹ではなく、無数のヒグラシが、まるで目の前の樹林を右から左へ、左から右へと波打つように鳴き始めたのである。
 もちろん、ヒグラシそのものが見えるわけではないが、あの特徴的な鳴き声は心地良く、本を読むのも忘れて聞き入った。結局、ヒグラシの鳴き声は辺りが暗くなるまで2時間以上も続き、この晩はずっと頭の中でヒグラシの鳴き声が響き渡っていた気がする。
 私が育ったのは海辺の町で、夏の夕暮れなど、たまに1匹か2匹のヒグラシが遠くで鳴いているのが聞こえ、夏休みも終わりなんだなぁなどと、もの悲しい気分になったことを覚えている。しかし、一度にこんなにたくさんのヒグラシが鳴いているのを聞いたのは初めてだった。
 ヒグラシの大合唱はすっかり耳から離れなくなり、翌年にはレコーダーを持参して鳴き声を録音、家に帰ってからイヤホンで聞いたりするようにもなった。ヒグラシについて調べてみると、6月下旬から9月中旬頃まで活動し、日の入り前後の薄明時によく鳴くことが名前の由来になったとある。俳句で秋の季語にされるなど、ヒグラシは晩夏に鳴くイメージがあるが、夏の初めから意外と長い期間、鳴き声を聞くことができるようである。
 ホテルのべランダに出るのは露天風呂に浸かった後、タ食までの2、3時間だが、ヒグラシの鳴き声を聞きながら、雑多な本をとりとめもなく読んでいるのはとても幸せな時間だった。
 ところが最近、この大合唱が聞かれなくなってしまった。この夏は暑過ぎたのか、ヒグラシの鳴く時期を逸したのか、などと考えていたが、こう何年も続くと、地球温暖化のせいか、などと要らぬ心配をしてしまう。今のところ、この温泉地に出掛ければ、大合唱ほどではないがヒグラシの鳴き声を聞くことができ、そこそこは満足して帰ってくる。しかし、いつかはもう一度、あの大合唱を聞きながら、ノンビリと本でも読んでみたいと思っている。

宮城県 仙台市医師会報 No.662より

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