本屋に出掛けて雑誌コーナーを眺めるのが好きで、週刊誌、男性誌、経済誌、趣味系専門誌、料理雑誌、果てには女性誌なんぞを、いちいち手に取ることもなく、表紙に並んだ文字を、見るでもなく読むでもなく「何となく眺める」といった風情で巡回していると、やはり出版というものは、買い手が付いてこその商売であって、特に消費サイクルの短い雑誌のことであるから、時代を先取りしている体を装いながらも、人々が今求めている「気分」というようなものを色濃く反映して、つまり一部の編集者の思惑なんぞをよそに、大衆が雑誌の表文字や特集のあり方を決める。そこを読み解くというか感じ取ることが楽しくて、週に一度の本屋通いを欠かしたことはない。
このコロナ禍が始まって以降は、「免疫力を高める食事法」だの「ワクチンの不都合な真実」だの「家飲み大全」だの「在宅ワーク特集」などの文字が踊っている。実際手に取ってみればさして内容が濃くないどころか、デマまじりの流言も多いし、冷え込んだ消費マインドを何とか鼓舞せんとする、各メーカーの担当者との綿密な打ち合わせの上編まれたであろう、家飲みや在宅ワークの「お道具カタログ」でしかなかったりするのだけれど、時折「だまされたと思って......」という編集者からのささやき声に促され、つまみ食いするかのごとく実践してみると、退屈な生活が何となく面白くなったりするのだから侮れない。
多少医学をかじっているので、「○○健康法」(そう言えば過去には自分の尿を飲むというのもあった)みたいなものに執心したり、「コロナワクチンは毒ではないか」などと不安に苛まれるようなことは特段無く、この一年で言えば、雑誌経由でわが生活に取り入れられたのは「キャンプ」と「ネット配信」の二つなのだった。
昨今の、特にこの半年のキャンプ雑誌の勃興ぶりは、今やシンパとなった自分の目にも余る程で、コーナーに行けば、そこには色とりどり、初級者の日帰りピクニックから狩猟前提の自給自足系野営、イヤこれはほとんど文明批判なのではないかと思えるような超本格派のヤツまで、ありとあらゆる情報がひしめきあっているのを目にすることができる。
論を待たずこれはステイホームの反動、三密回避の順守が生んだ一過性のブームであって、そこにホイホイと追従している自分の軽さを自虐しつつも、「これこそが経済を回すということなのだ。金は天下の何とやら」などとひとりブツブツと、寝前のいとまに「お道具カタログ」を眺めて新製品の"新基軸"にいたく感心、それらを駆使するシーンを思い浮かべたら、何やら居ても立ってもいられずアマゾンのカートに放り込んでいる、というような状態で、つまりよくある「道具ばかり立派な」キャンパーに自分は成長しつつある。
日々の診療があるので、泊まりのキャンプは片手に余るほどしか経験していないけれど、週末に子ども達と、薄暗くなった庭先に焚き火台を出してきて薪をくべ(ニワカなので着火ライターを使う)、焼き芋を焼いたり、シチューを作ったり、飯盒(はんごう)メシを炊いたりするだけで、それは心が浮き立つように楽しく、その高揚感の中にいる時、主役は間違いなく「自分達で起こした火」であって、並み居る"お道具達"は、単なる脇役として奥座敷に引っ込んでいる。
コロナ禍で、世界中の人間がこれまでにない我慢を強いられている。その多くはリアルな「手触り」に関するもので、人と人が会う、酒を飲みながら会話をする、うまいものを「うまい!」と言い合いながら食う......そんな変哲もないことが感染対策上"良くないこと"とされている。
当初自分は今回の空前のキャンプブームを、「三密」を「回避」するための逃げ道のように眺めていた。しかし今はそれが違って見える。これは"リアルを捕りに行く"人間の根源的、積極的な欲望に直結している。ウィークデイのアマゾン渉猟はバーチャルな埋め合わせでしかなく、週末に経験する頬を焼く炎のリアルには到底かなわない。
ブームはブームであるがゆえに軽薄だけれど、それが流行する背景は結構切実なのだと思う。