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令和4年(2022年)8月20日(土) / 南から北から / 日医ニュース

新聞配達の思い出

 もう15年以上前と思う。診察室での患者さんとの話の中で、次のようなやりとりがあった。
 「それは私だったかも知れませんなあ~」。80代Aさんの診察を終え、世間話の途中で彼はこう言った。その方は、私が子ども時代に住んでいた地域から受診されていた。
 私は母子家庭で育ったが、母は私を含めて3人の子育てのために、三つの仕事を掛け持ちしていた。生命保険の外交員、近所の人々を対象にした洋裁請負、学習塾英語講師。母は大正8年に米国コロラド州デンバーで生まれ、現地の学校に通っていた。6人家族であったが家庭の事情で17歳の時に日本に帰国し、徳島高等女学校に入学した。英語は生涯達者で、Native speakerのレベルを亡くなるまで維持していた。私が子どもの頃「Get out my way!」「How stupid you are!」と英語で叱られることもよくあった。
 しかし、母はこれだけの仕事をしても、3人の子どもの養育費捻出には十分でないことが子ども心にもよく分かった。私が小学生の時は「潮風クラブ」という少年野球チームで野球に明け暮れていた。中学生の時は、故上田収穂先生が主宰するリードオーケストラ部でチェロを弾いていたが、城南高校入学後はまた野球をしたいと思い、硬式野球部に入部した。家の経済状態を考えると、グローブやユニフォーム代の工面は自分でしなければと思い、中学卒業直後直ちに新聞配達を始めた。
 朝は午前5時過ぎから配達をするため、家を出るのは午前4時半頃。しかし、高校生活を始めてみると、予習復習に時間を取られ、また野球部の練習疲れで、たびたび朝寝坊をした。急いで販売店に行き自転車で宅配を始めても、配達先の家の前で新聞を待っている人がいた。「仕事に行く前に新聞を読むのに、もっと早う配達せんかったらあかん」と複数の家で叱られた。
 Aさんの診察時に、新聞配達のこんなエピソードを話すと、私も新聞を遅い時間に配達する配達員を叱ったことがあったとAさん。ひょっとしたらあの時叱られたのはAさんかも知れないと思い改めてわびたが、故郷の話に花が咲いた。
 結局この新聞配達は半年弱で断念せざるを得なかったが、新聞配達のほろ苦い思い出が、懐かしいものに生まれ変わったひとときだった。

徳島県 徳島市医師会報 第50号より

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