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令和4年(2022年)11月5日(土) / 南から北から / 日医ニュース

私の中の一労永逸

 高校時代、何かクラブ活動をしてみたかったので、かねてよりやってみようと思っていた陸上部に入ろうと、入学して数日後、部室まで行き、「陸上部に入れて下さい」と大きな声で言ったものの、反応は薄く、その時部室内にいた3~4名の中から上級生らしき人が「入りたいのか」と聞くので、「はい」と答えたらあっさり「いいよ」とのこと。早速準備して翌日から練習開始となった。
 まずグラウンドを2~3周ゆっくり走り準備体操、それから軽く「流し」といって自分のスピードの80パーセントくらいで走る。この後がそれぞれの専門種目の練習となるのだが、自分の種目がまだ決まっていなかったので、先輩達の練習を見てから決めようとしたものの、よく分からず、まず三段跳びに取り組んではみたが、致命的にばねが無いことが分かり、試合は2回出ただけですぐに断念。
 次に、短距離でいこうと思い、100メートルや200メートルはスピードが無いからと、なぜか400メートルに取り組んだが、これはスピードもスタミナも要るというハードさが要求され、基礎体力も付いていないのに毎日適当な練習しかできず、タイムも当然上がらない、中途半端な日々が続いていた。
 ある日、グラウンドに見知らぬおじさんがやってきて、なぜか部員一人一人にどんな練習をしているか、タイムはどのくらいかなど聞いてきた。それが、A先生との出会いだった。当時は家政科があったので、そこの先生か、などうわさしていたが、本来の顧問の先生が、卒業まで一度も顔を出したことがなく、卒業アルバムで初めて顔を確認したぐらいなので、指導などされたことがない身分には、結構きつい練習をさせられ、迷惑な存在だな、などと思っていたが、実力は少しずつ上がってきたようだった。筋力トレーニングしたのも初めてで、練習そのものは今にしたら軽いと思えるが、当時は大変だと尻込みしていた。
 医師になり、新居浜に帰ってきてしばらくして、子ども達が陸上部に入り、東雲(しののめ)競技場で試合がある時、見物に行くと競技審判員の一人に見覚えのあるA先生の顔が。何度か行っているうちに、先生もこちらに気付いたようで、近寄ってくる気配はあったものの、お互い言葉は交わさないままだった。
 その後、子どもの成長とともに競技場には行かなくなった。それから開業して20年も過ぎた頃、ある初診の患者さんが受診された。右ひじが痛いとのことで、見ると赤く腫れているので関節炎と思い内服、湿布など処方。顔に何か見覚えがあるのに、カルテの名前にはピンとこないのである。
 それから数年後、新聞のお悔やみ欄の名前を見て、あの時の初診患者さんがA先生だと確信できた。どうしてそうなったかというと、A先生は高校時代、一度だけ保健体育の授業に来られ、その時の自己紹介で自分には名前が二つあるのだと説明されたのだった。私は、そのうちの一つは記憶していたが、受診時は記憶に無い方の名前だったので、ご本人とは思わなかったのである。しかし、卒業名簿を確認したところ、やはりA先生であることが判明した。早く分かっていれば、在学中のお礼や近況など聞けたのにと、悔やんでも後の祭りでした。自分の記憶のふがいなさに何度も頭を振ってしまいました。
 もう遅いかも知れませんが、この場を借りて、A先生、あの頃は大変お世話になりました。そしてありがとうございました。

愛媛県 新居浜市医師会報 第780号より

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