これは40数年前の遠い昔のお話です。私は長崎大学を卒業後、すぐに当時の国立大村病院(現在の長崎医療センター)で2年間、研修医生活を送りました。病院の建物はまだ古く、私達研修医の寮は昔の入院病棟を改造したような所で、窓の隙間からは雨や雪が降り込んでくることもありました。隣の部屋との仕切りの一部は上方がオープンになっていたため、物音も筒抜けで、寝ながら話すこともありました。廊下には内線電話があり、夜中に急患の連絡が入ると皆、競って急患室に駆け付けたものでした。
また、病院での勤務の他に、祭日や週末は近隣病院の当直も回ってくるため、ほとんど休みのない日々でした。しかし、若かったためか、一日でも早く、そして一つでも多く経験を積んで一人前の医者になりたいという思いが強かったようにも思います。
そんなある日、私はある病院の当直を頼まれました。とても古い病院で、看護師さんもかなり年配の人でした。今夜辺り危ない患者さんが一人いるので、その時はよろしくと伝えられました。案の定、夜中に呼び出されましたが、病室までの暗くて長い廊下を看護師さんの懐中電灯を頼りに歩いていきました。
病室には高齢の患者さんが点滴をされて横たわっており、ベッドの周りには数人の家族の人が集まっていました。私の診察を、息を潜めるように見ておられましたが、まだ微弱ながら脈は触れました。そのまま帰ろうとするとご家族の一人が私を追い掛けてきて、あとどのくらいかと尋ねられました。私は「まだ生きておられますので」としか言えませんでした。
正直、当時の私はまだ、主治医として患者さんの死に直面したことがありませんでした。そこで当直の年配の看護師さんに、もしもこの患者さんが亡くなった時、私はどうすれば良いのかお尋ねしました。そしたら「先生は何もしなくて良いですよ、ただ"いんどう"を渡して頂ければ良いのです」と答えられました。私はその時、"いんどう"の意味が分からず、"いんろう"と勘違いしていました。当時テレビの時代劇で水戸黄門が「この印籠(いんろう)が目に入らぬか」と言っていたのを思い出しました。そこで看護師さんの詰め所で、机の上をそれとなく印籠らしきものを探しましたが見当たりませんでした。
不安な夜は明けましたが私は内心焦っていました。そこで、当時所属していた整形外科の医長の先生に電話をして、患者さんが亡くなられた時どうすれば良いのかお尋ねしました。ところがその先生も「いろいろしゃべらなくて良いから、死亡時間を告げて"いんどう"を渡せば良い」とおっしゃられました。私はますます不安になって頭の中が"いんろう"でいっぱいになりました。
その後"いんどう"が"引導"であることが分かり笑い話になりましたが、研修医時代の忘れられない思い出の一つです。
私も、そのうち誰かに引導を渡される日が来るかも知れません。もしもその時、あの時の私みたいに不安そうな研修医が立っていたら、片目を開けてピースサインでもしてあげようかなと思うこの頃です。