先日、妻が「これを読んでごらん」と何かしたり顔で一通の手紙を持ってきた。1年程前に94歳のご主人を亡くした奥さんからのもので、一周忌の案内状に添えられていたのであった。
その内容は、主人は大往生で十分介護もできたので悔いはないが、一つ心残りなのはもっと"I love you"という言葉を浴びせてあげればよかった、という旨の内容であった。このご夫婦は外国生活も長く、我々から見ると欧米の文化には十分溶け込んでいると思っていたのだが、それでもそうなのかなと少々意外であった。
妻は「あなたは私に、好きよ、とか"I love you"とか言ったことがある?」と詰問する。こういう流れになることは予測できたので、そら来た、と身構える。確かに改めて聞かれてみるとあまり言ったことはない(ように思う)。しかし妻だって私に、好きよ、とか"I love you"と言ったことはない(ように思う)。洋画を観ていると、電話を切る時、出勤する時など、やたらと"I love you"を連発する。それが習慣であり、文化なのだろうと思うが、そこまで言わなくてもいいのに、そうでもしないと自分達の関係に自信が持てなくて不安なのだな、というような意地悪な考えも浮かぶ。
今の若い日本人はどうか知らないが、私の年代ではそのようなことを直接言葉にするのには躊躇(ちゅうちょ)があるのである。それでも妻はたたみ掛けて、「す」「き」「よ」のたった3語なのだから言ってみたらどうなの、と3本の指を立ててみせる。
そこで思い付いた。人差し指を立てて「す」、中指を立てて「き」、薬指を立てて「よ」、これをサインとして、口で言う代わりにしたらどうだろう。これを妻に提案したら採択されて、以降そのような機会があったらこのサインを用いることにした。口に出すよりずっと使いやすく重宝で、これも一種の言葉である。
これでこの件についてわが家では何とか解決できたので、もしそのような必要性を感じておられる方がいれば用いてみてはいかがかと思う。言うまでもないが、あらかじめお互いに取り決めをしておかないと何の意味もなさないのでご注意を。
コミュニケーションは社会生活に不可欠で、言葉(手話、点字、サインなども含めて)はコミュニケーションの基本である。動物でもその種独特の言葉があるし、最近植物でさえ何らかのサインでコミュニケーションを取っている事実が報道されていた。ましてや人間の言葉は複雑なので、伝達する内容も豊富である。加えて文字という媒体を持っているので、言葉によるコミュニケーションは時空を超えて可能である。ただ、言葉は感情、意志、行為を伴ってこそ意味あるコミュニケーションとなるので、それらの伴わない言葉は空虚である。
言葉を用いない行為によるコミュニケーションがある。泣いている赤ちゃんをあやして泣きやませるのに言葉は要らない。恩を受けたら恩返しをする、約束を守る、教えを受けたら誠実に実行する、などは信頼を育む無言の意志伝達である。逆に、嫌なやつとは口を利かない、などは交流を拒絶する無言の意思表示である。しばしば言葉を用いないコミュニケーションは言葉より強力である。
以心伝心というのがある。今では、口に出さなくてもお互いに通じ合うという意味に用いられるが、そのルーツはお釈迦様に関する故事にある。
晩年のお釈迦様が大勢の弟子の前で説法をした後、一本の花をかざしてちょっと捻(ひね)った。その時、大迦葉(だいかしょう)一人がにっこりと微笑んだ。それを見てお釈迦様は「ここに自分の教義の全てを大迦葉に授けた」と言ったという。それを後代の中国の禅仏教が「仏の滅する後、法を迦葉に対し、心を以て心に伝う」と表現し、師から弟子へ教義を伝える方法の基準とした。
我々一般の生活でも、微妙で濃密な内容は言葉や行為によるコミュニケーションの繰り返しの末、以心伝心でようやく伝えられる、ということがある。以心伝心はいわば究極のコミュニケーションである。
さて、先に紹介したご夫婦であるが、恐らくほとんど以心伝心の域に達しておられていたと思うが、それでもさらに"I love you"という言葉を浴びせたかったと感じているということは示唆に富んでいる。以心伝心の間柄というのは完成し固定した状態ではなく、常に言葉と行為により維持、強化していくべきものであることを教えてくれているのではないだろうか。
かのお釈迦様が弟子の大迦葉に以心伝心でその奥義を伝授した後、二人でどのような会話をしていたのだろう、と想像するだけで楽しくなる。