とある休日、家族での食事中の出来事です。
その日のメインは、某・粕漬け魚。おいしい焼き魚と炊き立てのご飯をホクホクしながら食べていると、わが子の口から驚くべき言葉が滑り出てきました。曰(いわ)く、「小学校の給食で焼き魚が出た時にその皮を食べていたら、隣の席の子に『魚の皮を食べるなんて下品じゃない?』と言われた」と。
私はこの言葉に本当に衝撃を受け、一気に奈落の底に落とされたように感じました。わが身を振り返ると、骨と貝殻と種以外は食べられるものしか食卓に上げない、という家庭で私は育ちました。また、小学生の頃に給食で焼き魚の皮を食べ、担任に褒められたことがありました。担任は、「焼き魚で一番おいしいところは皮だよ」と言い、友達の食べ残した皮を(もらっていいかと断りを入れた上で)ひょいとつまみ上げて食べてしまいました。そうして母になった私は、わが子にも同じように教え、皮を残していれば、食べなさい、と促してきました。それは間違いだったのか。
そもそも、私はこれまでの人生で、上品か下品かという物差しで物事を見たことがあるだろうか。いえ、ほとんど記憶にありません。そんな私のせいで子ども達に恥をかかせてしまったのだ、と自分を責める気持ちにすらなっていました。こうなると、夫にいつも叱られる「想像を絶する妄想力」が止まらなくなります。そして、ふと似たような出来事を思い出しました。
10年程前に夫とそば屋に出掛けた時のこと。私達はいつもどおりそばをすすって食べていました。すると、隣のテーブルに座っていた家族の娘達が、下を向いてくすくすと笑い始めました。両親もそれをとがめません。嫌な感じです。その時、隣のテーブルにもそばが届きました。すると、何ということでしょう! 彼らは全く音を立てず、モグモグとそばを食べ始めたのです。これはまた本当に衝撃的な光景でした。そば屋でこんなに静かな食事風景を目の当たりにしたのは、後にも先にもこの時だけです。この時私は、これが当たり前と考える文化圏があることを知りました。
法的な根拠など万人の基準となるものがあれば、正しいことは普遍的なものになります。しかし、それ以外のものはさまざまな要因で正しさの基準は変わります。その基準の正当性は、おおよそ多数派かどうかで線引きされていることが多いように思います。もちろん、多数派だから良い、少数派だからダメというわけではありません。少数派の意見も尊重し、互いに幸せに暮らそうよ、という考え方がダイバーシティと言われるものでしょう。自分と違うことが世の中にはあることを知る、それがダイバーシティの初めの一歩だと私は思っています。
そんな考え方が広がりつつある現在、焼き魚の皮を食べるのは下品、と言った子も、そばをすすることを笑った子も既に成人しているはずです。自分と違うことを頭から否定するのではなく、理解してみよう、受け入れようという柔軟性を身に付けることはできたのでしょうか。逆に、わが子に自分と違うことを受け入れるための知識を与えることが私にできたのでしょうか。
長男が以前、「友達とそばやラーメンを食べに行ったら、まず最初に自分は麺はすすって食べたい派だ。すすってもいいか、と確認するようにしている」と言っていたことを思い出しました。一緒に過ごす人に対してさりげない配慮ができる長男はすごいなあと思ったものでした。ここまで来て、私もわが子に少しはダイバーシティの考え方を伝えられたのかも知れない、と安心し、壮大な妄想にも終わりが見え始めました。
私も長男のような小さな配慮をたくさん用意して生きていこう。そしてこれまでの上品か下品かを考えることの少なかった人生を反省し、これからはたまにはそういう目で物事を見てみようかな。
そんなことを考えながら、また焼き魚に箸を伸ばしたのでした。