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令和6年(2024年)6月20日(木) / 南から北から / 日医ニュース

「コロナ禍の職場」で

 前回のコラムでの執筆以来、今も保健所勤務だ。さて、どう過ごしていたか?
 今となれば、もう以前のことだが、前回の辰年の秋、私はフィリピンに2カ月出張した。急性感染症の疫学情報収集事務を学ぶ、という触れ込みだった。同僚先輩は、嫌な顔一つせず送り出してくれた。
 マニラのエルミタ、マラテ地区が私の勤務地だった。毎朝4時、野犬を避けながら通った。が、毎日の英語の議論は、つらいものだった。
 ペアになったのは、マレーシア厚生労働省のA君だった。4人の子どもの父親で別段偉ぶる様子もなく、英語も自分よりは上手そうだった。敬虔(けいけん)なイスラム教徒の彼は、毎朝、「My Friend!」で始まり、私がパソコンで頑張っていると「I go to pray......」と言ってはちょっとだけ姿を消し、実に爽やかな笑顔で仕事に戻る。周囲では彼のこの「祈り」の行動に眉をひそめる向きもあったが、本人は悠々たるもので、私の失敗も全部「ニコニコ」しておしまい。最後まで二人で頑張れた。自分は実に運が良かったのだ。
 主な仕事は、ネットの西太平洋地域諸国の感染症情報を、リスクを見極めて全体ミーティングに向けた準備をする、というものだ。この時期MERSが、世界的な問題だった。やっていて分かったのだが、一見類似の感染症事象でも、国により医療事情が違えばその「リスク」は当然大きく変わる。もちろん日本での医療の「常識」などおよそ通用しない。いよいよ周囲の議論は白熱したが、英語の力も、日本の常識すらない私は、ただぼんやりするばかりだった。それでもA君は「ま、ええやん」とばかり、ニコニコしていた。
 3週間目くらいから、少々体調が変になった。緊張でおなかも壊した。それでもやみくもに頑張っていたら、アメリカのS君に「おまえパソコンと結婚したんか?」とまで言われた。A君は少し心配げだった。
 最終週、見かねた上司が、私とA君をマニラ湾クルーズに連れだしてくれた。夕陽が美しく、A君は、船上で敬虔な祈りを捧げた。船が「旋回」すると、船上の彼の絨毯(じゅうたん)の向きもそのたび「旋回」した。彼は祈り続けていた。......ホンマに真面目なタチなんや!と思った。ただ、ふと気付いた。彼は、私みたいに「疲れて」はいなかった。痩せてもいなかった。毎日一緒にいて、同じ仕事をしたのに、これは一体どういうわけだ?
 帰る日、彼が別れ際に、いつになく懸命に何かを話した。多分、「タケシ(私の名前)、いろいろ気にしなや。僕がモスク(寺院)探して、その辺で道聞いたら、みんな親切やったで。見も知らん人が、手引いて連れてくれたで。そういうマチ(街)やで」。身振りでそう分かった。「言葉」は分からずとも「気持ち」は分かった。なぜかホッとして京都に帰った。
 10年後、コロナ4波の頃、ふと彼のことを思い出した。今やマニラでの緊張感など、眼前の職員にははるか及ばない。
 あの折、A君のよく分からない「言葉」には、だが確かに「分かり合えるもの」があった。しかし今はどうだ。感染症も学び、専門用語も覚えた。でもクラスター現場で不安顔の市民に、そんな類いの「言葉」をいくら選んでも尽くしても、結局その度「分かり合えない事」が増える一方ではなかったか?......これは一体どういうわけだ?
 「コロナ禍の職場」で、まもなく60歳だ。何を祈る神も仏もない私だが、一方でA君の祈りは、今日もどこかで悠々と続いているのだろうか。祈りの後の、あの実に爽やかな笑い顔に、またこの先会えたら一体何を話そうか......正直少し迷い、でもすぐに思い直した。「ああそうか、大丈夫や。選ぶ程の言葉数も英語の力も、自分にはもともと無かった!」と。

京都府 京都医報 NO.2260より

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