茶色の地毛の頭髪を学校から黒く染めるように生徒が強要された事件が最近話題となった。教育現場を管理する側の事情も分からなくもないが、生徒の髪の色や服装の一律化は教育とは関係のない話であろう。まず生徒を信頼し対話することから教育は成り立つはずである。
このような校則の運用の厳格化の一方、就職活動のリクルートスーツと髪型の固定観念のように、規則の画一的な運用や自主規制は今の日本社会には多く見られる現象である。
大手自動車メーカーで無資格者が完成車の検査に恒常的に従事していたことが判明し、大量のリコールが発生した。規則を問題なく長年運用していると、次第に順法意識の低下と検査自体が目的化してしまい、規則の意味を忘れてしまったのだろう。当然ながら不適切な規則の運用によって自動車に欠陥が生じる事例があってはならない。無資格者審査は国内の規則では違反となるが、輸出向けについては輸出先の判断に従うためリコールの対象にならず、国際的には問題となってはいない。
規則は必要であり、それを守るのは言うまでもない。しかし規則が現実にそぐわない時は、規則そのものを改める方が理にかなっている場合もある。規則とは、秩序を保ち誰もがより自由となるようにできるだけ簡素に設定されるべきであり、管理の強化が目的ではない。
近頃は問題や事件が起こればそれを防ぐ名目で新たな規則が作られ、また規制緩和のための別な規則ができている。このような社会に息苦しさを感じたり、大切な何かを見失ったりしてはいないだろうか。
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