大学を卒業してから43年間通っている寿司屋がある。通い始めた頃はまだ病理の教室にいた頃で、いつも薄暗い部屋で顕微鏡を見ていた。
未熟だった頃の苦い思い出は、ホルマリンの匂いと共によみがえる。卒後すぐに助手にしてくれるという餌に飛びついたのを後悔したのは1年間くらいで、その後6年間は学問を楽しんで病理に在籍していた。初任給は手取り13万円で、妻と暮らした部屋の家賃が8万円であった。
友人の紹介で、神楽坂の寿司屋に行くようになった。マスターとは偶然同郷であることで親しくなり、足繁く通うようになっていた。
マスターは私より5歳年上であったが、店が暇な時には見習いのお兄さんに任せ、一緒に新宿に遊びに行ってしまうこともあった。
ゴルフは私が教えたが、はまってしまい、日曜はもちろん、日の出が早い夏にはお店終了後、午前5時頃から河川敷のゴルフ場に出掛けることもあった。
値段が書いていない寿司屋で、カウンターが10席程の高級店であったが、その頃の私のお勘定はいつも3500円であった。「これでいいの?」と何回か尋ねたが、笑顔だけが返ってきた。
その後、私は故郷で開業したが、上京の度に通っていた。10年程前からは息子さんと一緒にやるようになり、2年程前からは自分は陰に回り、カウンターの主役を長男に譲っていた。
コロナの影響で1年程ご無沙汰していて、最近お店を訪問したら、昨年の暮れに肺がんで亡くなったと聞かされた。享年73歳であった。形見に頂いて来た吸いかけのハイライトはわが家の仏壇に置いてある。
開業して私の収入が増えるにつれ、お勘定は高くなった。お店でマスターに最後に支払ったのは確か3万円であった。寿司屋はおいしい新鮮なネタはもちろんだが、しゃれた会話がつまみになる。少しは出世したと思っている私は、まだ彼から頂いた多くの楽しかった思い出や温かい友情の分を支払い終えていない気がして無念である。
(頑固おやじ)