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令和6年(2024年)10月5日(土) / 南から北から / 日医ニュース

ニューヨークでの幻

 都会に住んでいると、いろいろな機会で有名人・芸能人を見掛ける。かつて昔、東京にいた時は地下鉄銀座線の中で、目の前の席に腰掛けたのは筑紫哲也だった。スーツでなく革ジャンを着ていたが、フサフサしたあの髪の毛は間違えようもない。広尾のレストランで隣のテーブルでちょうど会食していたのは、山城新伍と梅宮辰夫一行だった。よく飲み・よく食べ・よく話をしていて、芸能人のエネルギー・カリスマを感じた。
 芸能人を見掛けると言えば、最たるはハワイである。特に年末から正月は芸能人に遭遇しない方が難しいくらいだった。
 さて、これも昔で30年も前のこと、私は米国東部のフィラデルフィアという街で、過酷な研修医生活をやっていた。日本人にはなじみの薄い街で、もちろん日本の芸能人を見掛けることもなく、日本の観光客すら珍しい街で生活をしていた。そこでは奴隷のような研修医生活ではあったが、4週間に1回だけは、土日が休みという週末があった。そんな息の詰まるような生活をしていると、休みくらいは奴隷生活を忘れて華やかな世界を求めたくなるものである。
 ある週末の土曜日、朝早くから一人バスで、ニューヨーク・マンハッタンヘと向かった。やっぱりマンハッタンは活気がすごい。人種の"るつぼ"だ。世界中からの観光客でにぎわい、いろいろな国の言葉が飛び交う。当然、日本語もたくさん聞こえてきた。
 久々の日本とのコネクションに心躍りながら、ラーメン店に入った時のことだ。そこはテーブルが四つ程のこぢんまりとしたラーメン店で、客は私だけであった。私は案内された一つのテーブルに腰掛け、みそラーメンを注文してラーメンを一人待っていた。と、まもなく、男2人、女1人のグループが店に入ってきた。明らかに日本人だった。向かいのテーブルに、女性はこちらを向いて座った。サングラスを掛け、落ち着いた高級そうな服装で、背筋がビシッと伸びていた。周りの男は付き人で、いかにも「日本からの芸能人に間違いないな!」という雰囲気であった。顔は、卵型、色白で、文字どおり餅のような触りたくなるような肌をしていた。ますます芸能人っぽかった。歳は、きっと20代であろう。サングラスを外さないが、「これは絶対宮沢りえだなぁ」と、確信した。
 「これはついている!」。ドキドキしながら、その芸能人をチラッチラッと見てしまう。サングラス越しに目が合ったのか、向こうも笑みをくれているように見える。私の脈拍は心室細動並みに速くなっていった。久しぶりの日本食も、何を食べたかすら分からない程であった。思い切ってサインをせがむかどうか迷った。「他の客もいないし、異国の地だからサインくらいしてくれるのかなぁ」。しかし、紙もペンも持っていなかった。「くそー!」。
 結局、ラーメンを食べ切り、後ろ髪を引かれながらも、仕方なく会計へと立ち上がった。会計の所は、テーブルから少し離れていた。恥ずかしながら小声で、店のお姉ちゃんに聞いてみた。
 「あの人、宮沢りえさんですか?」
 店のお姉ちゃんはクスっと笑って教えてくれた。
 「森光子さんです!!!」
 私は開いた口が塞がらず、顔から火が出る思いであった。当時、宮沢りえは24歳。かたや、森光子は喜寿で77歳であった。
 もともと人を識別する能力に欠けてはいる私ではあった。そして、しばらく日本人を見てないというせいもあったかも知れない。しかし、そこまで見間違えるとは......。がっかりで恥ずかしい一日になってしまった。それにしても、芸能人の若さを保つ能力は「凄い!」と、つくづく思ったものだった。

(一部省略)

大分県 別府市医師会報 通巻第214号より

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