新春に当たり、今回は、プロ卓球選手(ANA所属)である福原愛さんを迎え、昨年のリオデジャネイロオリンピックでの活躍や、スポーツを通しての東北復興支援活動、更に3年後の東京オリンピック・パラリンピックに向けた抱負などについて、横倉会長と語り合って頂いた。 |
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横倉 リオデジャネイロオリンピックの卓球女子団体での銅メダル獲得、おめでとうございます。前回のロンドンオリンピックでの女子団体銀メダルに続き2大会連続でのメダル獲得となりましたね。私もテレビの前で興奮しながら、福原選手始め日本の卓球陣の活躍を見て、大変勇気を頂きました。
福原 ありがとうございます。
横倉 非常に調子が良いように見えたのですが、どうですか。
福原 はい、事前の合宿などでしっかりと練習に励むことができて、とても良い状態で現地に入れましたし、その練習の成果を遺憾なく本番で発揮できたかなと思っています。
横倉 卓球の団体戦は、3試合先取したチームが勝利するわけで、1対1の勝負では非常にプレッシャーがかかると思うのですが、いかがでしたか。
福原 オリンピックというのは4年に1度ということもあり特別な舞台で、全てのアスリートにとって出場するのが夢ですから、メダルを持って帰って日本の皆様にお見せしたいという、良い意味でのプレッシャーと、あとは負けたくない、負けられないという意味でのプレッシャーと、いろいろなプレッシャーがありました。
横倉 団体戦の前の女子シングルスでは3試合連続ストレート勝ちで準決勝進出を決められたわけですが、準決勝で対戦した中国の選手は、やはり強かったですか。
福原 はい、今回私が準決勝で対戦したリシャオシャ選手は、ロンドンオリンピックの金メダリストで、元々強い選手ですが、中国のチームメートから、「今日の李選手は全然違った。こんなに強い李選手は今まで見たことがない」と言われるぐらい、調子が良かったと思います。
横倉 その後行われた3位決定戦で惜しくも敗れ、日本卓球界初の個人戦でのメダル獲得とはならず非常に残念でした。
団体戦は、石川佳純選手と伊藤美誠選手と一緒ということでしたが、福原選手が年齢も卓球選手としてのキャリアも一番上でお姉さんということで、キャプテンでもありましたね。前回ロンドンの時は平野早矢香さんなど年上の方がおられたわけで、チーム最年長で臨むオリンピックはずいぶん違いましたか。
福原 はい。全く違っていました。今回、キャプテンを務めさせて頂いて、「今まで先輩のキャプテンの方々に私は守って頂いていたので、のびのびとプレーをすることができていたんだな」と思いましたし、先輩方には本当に感謝の気持ちでいっぱいになりました。
横倉 キャプテンとなると、チームの調和を取らなければならないですからね。大変難しいところがあったのでしょうね。
準決勝のドイツ戦では本当にあと一歩のところで敗れ、三位決定戦に回られましたが、一度落ちた気持ちを次の試合でまた奮い立たせるために、どのようにして気持ちを切り換えられたのですか。
福原 説明するのは難しいのですが、間にちょうど一日あって、負けを引きずったままで次にまた負けてしまったら何の意味もないと思ったので、次の試合の相手に対する戦術だけを考えて、勝ち負けよりも、今日の自分にできることは何かということだけを考えていました。
横倉 結果がどうこうよりも、その時その時に自分のベストを尽くすことが大事なのでしょうね。
2大会連続のメダル獲得となったことで、ご自身へのご褒美は何かあったのですか。
福原 ロンドンの時、初めてメダルを獲得した記念として時計を購入したのですが、その時計は母にあげてしまったので、今回リオから帰る時に、乗り換えのフランクフルト空港で自分用の時計を購入しました。
横倉 ところで、日本医師会という名前を聞いたことはありましたか。
福原 はい、もちろんありました。
横倉 どんなイメージを持っていましたか?
福原 何か本当にお医者様のトップの、それこそスポーツで言えばオリンピック選手のような方が集まっているところなのかなというふうに思っていました。
横倉 いや、普通の医者ですよ。
福原 いや、いや、いや、いや。
横倉 私なんかはね、福岡の農村で開業しているんですよ。
福原 先ほど、横倉先生は心臓外科医でいらっしゃるとお伺いしました。
横倉 今はあまり診療ができていませんけどね。
福原 私も私のマネージャーも不整脈があるんです。私は心電図では分からないと言われているのですけど。
横倉 運動したらよくなるのですか?
福原 休んでいる時の方が出ますね。あとは、ズキンッて、いきなり痛くなって。
横倉 大事にしてもらわないと。大切な体なんですから。
福原 はい。ありがとうございます。
3歳で卓球を始めた理由とは
横倉 福原選手というか、愛ちゃんが子どもの時から卓球をしている姿をよくテレビで見ていましたが、卓球を始められたきっかけは何だったんですか。
福原 私には、小学生の時空手をやっていた10歳上の兄がいるのですが、進学した中学校に空手部がなく、母が卓球をしていたこともあり、卓球部に入りました。実は、兄の方が私よりもセンスというか才能があって、どんどん強くなって......。
そこで、家族みんなで兄をバックアップしようということになり、自宅のリビングを改造して卓球場を造ったのです。
当時、3歳だった私は、誰も遊んでくれる人がいなくて、卓球をすればその中に入れるんじゃないかと3歳児なりに考えて、卓球を始めました。
横倉 卓球台は結構高いから、3歳児では台に背が届かなかったのではないですか。
福原 はい。卓球台には足の部分を調整できる子ども用もあるのですが、それでも届かず、ごみ箱などを置いてその上に立ってやっていたのを覚えています。
横倉 私が小学校の頃は、卓球のボールで野球をしたりしていて、卓球のボールは変化しやすいという印象が強いのですが、やはりそうなのですか。
福原 はい。ボールの下をこするようなスピンをかける下回転で、短いサーブを打つと台の中で戻ってきたり、長いサーブでは床から自分のところに戻ってきたりします。
横倉 やはり試合中はそのスピンを利用してサーブでも工夫をしているんでしょうね。
福原 はい。逆に相手にそういったボールを打たれることもあるので、瞬間的にその回転や回転量など、いろいろなことを考えながらプレーしています。
横倉 相手のサーブがどちらの回転をかけているのか、分かるものですか。
福原 フォームや当たる瞬間、あとは回転をかければかけるほどボールは音がしないので分かります。バンッではなく、シュッという音とかですね。
いろいろなものを一瞬で判断しています。
横倉 すごいですね。ところで、福原さんは試合前に験を担いだりする方ですか。
福原 私は精神面が強くないと自覚しているので、担げる験は全て担ぐタイプです。
卓球は、シングルスの場合は7ゲームマッチで4ゲーム先取した方が勝ちなのですが、試合の日の朝にミニトマトを四つ食べるとか、そういう数字を非常に気にします。他には、コンタクトは左目から入れるとか、この髪留めを付けるとか、身に付けるもの全てに何か理由があることが多いです。
横倉 お生まれは仙台で、そこから大阪、青森、そして中国の超級リーグにも行かれましたね。
環境が変化する中で、健康管理では何に一番気を付けていましたか。
福原 もちろん、食事や睡眠ですが、特に海外に行くと毎食満足に栄養がとれるわけではないので、足りない部分はサプリメントなどで補ったりしていました。
横倉 食事の好き嫌いはない方ですか。
福原 どちらかというと、ない方です。
私は、おいしいものを見つけるのが得意みたいで、他の選手が痩せて帰ってくる時も、私だけ変わらず帰ってくるということも多くありました(笑)。
相談できる医師のいる安心が ケガだけでなく心のケアにもつながっていく
横倉 2012年には右肘の手術をされたり、2014年には左足小指の疲労骨折を発症されたりしたそうですが、これまでに、ケガは結構多かったのですか。
福原 はい、ロンドンからリオに向けての4年間はとても多かったですね。
卓球選手は、自分や他の人が打ったボールが足下に来て、捻挫をしてしまうことが多いのですが、私は筋肉も軟らかくて今までほとんどケガをしたことがなかったのに、この4年間では、肘と足、あとは腰と3カ所にケガをしました。
横倉 その時の医師との関わりの中で、印象に残っていることはありますか。
福原 肘の時も非常に不安が大きくて、ロンドンオリンピックの1年前頃には、ひと月からひと月半ごとに1本くらい痛み止めの注射を打ちながらプレーしていたのですが、信頼の置ける先生に恵まれていました。
肘の先生だけでなく、足専門の先生、そして腰の先生に、セカンドオピニオン、サードオピニオンと、いろいろな先生に診て頂きながら治療方針を決定することができたので、本当に幸せだなと思いました。
横倉 良かったですね。日本医師会では今、国民の皆さんに自分の健康とか、病気をした時にもすぐ相談できるような、「かかりつけ医」を持ちましょうと呼び掛けています。
また、それと同時に、医師自身にも「かかりつけ医」であることを意識してもらい、相談された時にきちんと応えられる能力を維持・向上してもらうため、「日医かかりつけ医研修会」を開催したりしているのですが、何か体調が悪いなという時、相談できる「かかりつけ医」はいらっしゃいますか。
福原 はい、います。ケガもそうですが、その後、咳喘息(せきぜんそく)になってしまった時は内科の先生とか、それぞれ専門医の先生に診て頂いています。少しでも不安なことがあったらすぐに相談できるので、すごく安心です。ケガの時に感じたのですが、身体のケガがなくても、そういった安心が心のケアにもつながっていくということで、本当に皆さんには感謝しています。
横倉 それは良いことですね。
オリンピックが終わった後、ご結婚されたということで、こちらもおめでとうございます。ご主人は優しいですか。
福原 優しくて、すごくまじめな人です。
横倉 台湾の方ですよね。
福原 はい。
横倉 台湾と言えば、私ども日本医師会も、2015年7月に、「災害時の医療・救護支援における医師の派遣と支援体制の相互承認に関する日本医師会と各国医師会との間の協定」を締結するなど、台湾医師会とは非常に仲が良く、いろいろと交流をしているんですよ。
福原 そうなんですね。
横倉 今は、ドイツにお住まいになっているとか。
福原 はい、彼がチェコのリーグに参戦していて、ドイツに練習拠点があるので。
横倉 ドイツのどの辺にお住まいなのですか。
福原 いまだに嚙んでしまってその地名がうまく言えないのですが、シュトゥットガルトという街です。
横倉 ベンツの街ですね。私が、40年前にドイツの病院で働いていた時、その街には音楽学校があって、何かあるといつも相談に来ていた学生さん達がいました。
その中の一人が、シュトゥットガルト国立歌劇場のオーケストラの主席ファゴット(*)奏者で、今では、シュトゥットガルトから南西に100キロ余り離れたトロッシンゲン国立音楽大学の教授をしています。
福原 ファゴットって、大きな楽器ですよね。たまたまですが、私のマネージャーもファゴットを大学時代に専攻してました。
横倉 そうなんですね、あのリードをつくるのが大変らしいですね。
クロアチアでの入院で感じた 日本の医療関係者の優しさと心配り
横倉 日本、台湾、ドイツは国民皆保険で、医療制度もよく似ていますが、中国の医療事情はどうでしたか?
福原 中国では、病気をした時、西洋医学ではなく、漢方が主流でした。
横倉 漢方ですか、中医学ですね。
福原 はい。薬を飲んですぐに治すのではなく、薬草など漢方の力で、長期的なスパンで治していくという考え方なんです。
急性胃腸炎で夜中に熱を出して病院に駆け込み、そのまま入院ということが日本でも何度かあったのですが、中国でもあって、その時は点滴と、あとは飲み薬とかを出すのではなく、真っ白で長い髭の仙人みたいなおじいちゃま先生が、3本の指で脈を聴いて、どこの機能が弱っているとか、元々生まれつき弱いとかを診断して、木の箱から干したミカンの皮とか椎茸みたいなものを紙に出し、ゴリゴリ擦って、お腹の上に置いて治すみたいな感じで...。
何か絵本の世界のイメージですよね。日本の診療のイメージとは違うなあって思いました。
横倉 そういった中医学とか漢方医学も、伝統医療ということで再認識されつつあるんですがね。
国によってやはり医療は違うものですね。日本は明治以降、西洋医学を中心にずっとやってきていますし、制度的にも、いつでもどこでも医療にアクセスできるという国民皆保険があるわけで、この仕組みは守っていかなければと思っています。
福原 体がそれほど強い方ではないので、海外のいろいろな国で病院に行くことがあって、クロアチアで入院したこともあるのですが、日本の医療関係者の皆さんは優しくて、心配りがあり、病院食もすごくおいしいですし、日本はすごいなと思います。
他の国に行って初めて、「ああ、日本の医療機関での対応が当たり前じゃないんだ」ということに気づかされます。病院に付き添いで行った時に、体調が悪くてもどしている患者さんに対しても、病院食として、パン1枚とハム1枚が出されたりしているのを見て、「えっ、これが病院食?」と驚いたり。日本だったら、まず重湯とかですよね。あとは、救急で入ったのにブランケットがないとか。
日本は本当に皆さん優しいなと思いました。
横倉 そうですね、日本人の優しさや相手を思いやる気持ちというのが世界中に根付いていけば、もっと幸せな世界になると思うんですがね。
被災地支援とオリンピック
横倉 仙台のご出身で、6年前の東日本大震災の時やその後も支援に入られたそうですが、具体的にどのような支援をされたのですか。
福原 初めは救援物資を送るなど微力ながらいろいろな活動をさせて頂きました。
今回リオに行く前に仙台で合宿をした時も、交流を続けている被災地の小学生達が合宿に来てくれて応援旗をプレゼントしてくれましたので、リオが終わってから、仙台を訪問して、多くの方々にメダルに触れて頂きました。
横倉 皆さん喜ばれたでしょう。力をもらい、勇気づけられたでしょうね。
福原 被災地の皆さんに逆にパワーを頂いて、絶対にメダルを持ち帰るという思いを更に強くすることができたので、今回のメダル獲得は本当に皆さんの応援の後押しのおかげだと思っています。
横倉 日本医師会でも東日本大震災の発災直後から、被災地以外の都道府県医師会の協力の下、JMAT(日本医師会災害医療チーム)(*)を組織し、全国から多くの医療関係者が参加して被災地の支援を続けてきました。
福原 本当にありがたいことだと思います。
横倉 福原さんは、内閣府の「災害被害を軽減する国民運動サポーター」に就任され、活動されておられるそうですね。
福原 はい、自分ができる範囲でサポートを続けていきたいと思います。
横倉 3年後は東京オリンピック・パラリンピックとなりますが、真夏の非常に暑い時期の開催ということで熱中症等を心配しています。日本医師会でも、東京都医師会と連携しながら対策等についての話し合いを始めたところです。
福原 私もすぐに熱中症になってしまうタイプで、手足が痺れてきて倒れてしまうことが多かったこともあり、リオの前には暑さ対策で奄美大島で合宿をしたくらいですから、私も心配しています。
横倉 奄美は暑かったでしょうね。
福原 すごく暑かったですが、塩分や糖分を飴でとったり、濃いスポーツドリンクを飲んだりと対策をとったので、リオでは万全な状態で試合をすることができました。
やっぱり対策をしておくことが必要ですね。
横倉 東京オリンピック・パラリンピックは福原さんにとって、どういうオリンピックになって欲しいですか。
福原 自国開催ということで、非常に楽しみですし、3年後に自分がどのような立場で関わっているか分からないのですけれども、絶対に関連する何かをしたいなと思っています。
横倉 私達としては、選手として頑張って頂きたいのですが、その前にご家庭のこともあるでしょうね。
卓球の選手でママさん選手は多いのですか。
福原 海外だと多いのですが、日本の場合はほとんどいないですね。
横倉 今後は女性の社会参画がますます進んでいくわけですから、もしママさん選手になって、メダルを獲得できれば、働く女性の励みにもなるでしょうね。
今後も体を大事に頑張って下さい。本日はありがとうございました。
福原 愛(ふくはら あい)さん (ANA所属) 1988年11月1日生まれ、仙台市出身。3歳より卓球を始め10歳の時にプロ宣言。14歳で世界選手権シングルスベスト8。17歳で中国・超級リーグに参戦する。2012年、全日本卓球選手権女子シングルスで優勝、同年のロンドン五輪女子団体で銀メダル。昨年のリオ五輪では、シングルスでベスト4、団体で銅メダルを獲得。 |
*ファゴット:木管楽器の一つで、オーボエと同様に上下に組み合わされた2枚のリードによって音を出すダブルリード(複簧(ふくこう))式の管楽器。 *JMAT:派遣状況としては、活動を終了した2016年3月21日までにJMAT(避難所等における医療健康管理活動を中心として、主に災害急性期以降を担う)が1,398チーム、JMATⅡ(災害関連死などの未然防止、仮設診療所や被災地の医療機関への医師派遣等を担う)が1,365チーム、全体では延べ1万2,628名が参加し、日医はその活動が評価され、2014年8月1日付で災害対策基本法上の「指定公共機関」に指定された。 |