左利きだった私は、物心ついた頃からいつも怒られていた。今でこそ左利きは矯正しないように指導されるが、私が子どもの頃は左利きはみっともないものなので、右利きへ変えてあげることが本人のためであり、早くから厳しくしつけるのが正しいと信じられていた。しつけ=(イコール)怒ることと考えられていた時代なので、記憶をたどれる3~4歳頃から、私はいつも怒られていた。
子どもは怒られてばかりいると、不安感や緊張感が強くなってしまう。そのため、落ち着きがなくなり、間違いも多くなる。すると、それでまた怒られる。悪循環を繰り返す中、徐々に情緒不安定となり、ついには、ちょっとしたストレスで狂ったように泣き叫ぶようになってしまった。
小学校に入る頃には、現在使用されている注意欠陥多動障害(ADHD)の診断項目に全て当てはまる、じっとしていられない(多動)、そそっかしい(不注意)、興奮しやすい(衝動性)大変な子どもになっていた。
これまでの私の人生の中で最大の幸運は何かと聞かれたら、「小学校に入学しM先生に出会えたこと」と迷いなく答える。まだ20代の若々しいM先生が、「教師になって4年間、ずっと上級生を担任していたので、低学年を担任するのはみなさんが初めてです。先生も一緒に勉強していきたいと思います」と、教室で私達に初めて語り掛けた言葉を今も覚えている。
M先生はいつも優しかった。私が不注意で間違ったり失敗したりしても、優しく励ましてくれ、怒ることはなかった。家に帰ると怒られてばかりでも、学校に行くと先生が優しく接してくれるので、毎日学校へ行くのが楽しくてしょうがなかった。そして、先生の前では、自然に自分も良い子になっていった。
小学校2年生のある日、M先生が珍しくみんなに説教をした。いじめや差別は絶対にしてはいけないと力説していた。
説教が始まって間もなく、私はオシッコをしたくなった。ADHDの合併症状なのか、私はトイレが近かった。授業中に手を挙げて、「先生、おトイレに行ってよいですか?」と許可を求め、教室を出ることがしばしばあった。しかし、その時は神妙な雰囲気の中でみんなM先生の説教を聴いていた。どうしても、オシッコと言い出せぬまま、説教が終わるまでじーっと我慢した。しかし、説教は延々と続き、終わらなかった。
そして、ついに私は漏らしてしまった。「先生、オシッコ出てしまいました」と泣きべそをかきながら言った。特別な説教をしている最中に漏らしたのだから、当然先生に叱られ、みんなに笑われると思い、泣き叫びたい気持ちだった。
しかし、M先生は意外な言葉を口にした。「ごめんなさい。先生が悪かった」。意味が分からず、きょとんとしている私に、「先生が長々と説教してたので、トイレに行きたいって言えなかったんでしょう。ごめんなさいね」と言って頭を下げた。
さっきまで張り裂けそうな思いだった私は、M先生の優しい言葉に救われた。
小学校2年の夏休みに、朝読みの課題が出され、日付が記された朝読みカードを渡された。できたら○、できなかったら×を毎日付けるようにとのことだった。
夏休みが終わって、朝読みカードを先生に提出する時がきた。周りの人達のカードを見たら、ほとんど○ばかりだった。私の朝読みカードだけが○と×とが半々くらいだった。
数日後、夏休みの朝読みカードの表彰式を行うとM先生が言った。私は、自分が一番×が多いことを知っていたので、表彰式をやると聞いてとても嫌な思いになった。全部○だった人の名前が読み上げられ、先生の手作りの賞状が一人ひとりに渡された。
表彰式が終わった後、M先生が言った。「それから、特別賞があります。由記夫さんです」。私はドキンとした。きっと最下位賞をもらうんだと思った。先生は言った。「由記夫さんは×が一番多かったです。半分くらい×です。でも、先生はとても嬉(うれ)しく思いました。他の人は一つか二つしか×を付けていません。みなさん本当に正直に○を付けましたか? 先生はもっと×がいっぱいあったんじゃないかなと思います。朝読みをすることは大切ですが、うそをつかないことはもっと大切です。由記夫さんは正直に×を付けてくれました。なので、正直賞をあげます」。
私は赤面した。正直だと先生が褒めてくれて嬉しくて赤面したのではなかった。「先生、ごめんなさい」との思いで、申し訳ない気持ちで顔を赤くしたのだった。実は、夏休み中に、私は朝読みを2~3回しかしていなかった。そのことを正直に書くことができず、自分なりに考えて、半分くらい○なら許してもらえるのではと思い、うその○をたくさん付けていたのだった。
そんなうそつきの自分のことを信じてくれ、評価してくれるM先生の思いを知り、私は本当に申し訳ない気持ちでいっぱいになった。そして、先生を裏切るようなことはもう絶対しないぞ、うそは絶対つかないぞと心に誓った。
M先生は2年間私達を担任した後、別の小学校に転任していった。その後、成人式の時だったろうか、先生と久しぶりに再会する機会があった。それからは、毎年、年賀状をやり取りするようになった。
今から5年前の初冬のこと。一枚のはがきが届いた。「喪中のため新年の挨拶(あいさつ)を遠慮します」と書かれていた。差出人はM先生のご主人だった。急いではがきの文面を読み返した私は、その場から動けなくなった。先生との思い出の場面が頭の中をグルグル巡った。
そして、あの朝読みカードはうそでしたと、いつか告白しなければと思っていたのに、もう絶対に言えなくなってしまったことを悔いた。
私にできるM先生への恩返しは、いつの時か再会した際に、「先生から頂いた特別賞は、私の人生に無駄ではありませんでした」と、胸を張って言えるように、これからも愚直な毎日を過ごしていくことだと思う。
(一部省略)
秋田県 秋田市医師会報 No.554より