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令和3年(2021年)1月20日(水) / 日医ニュース

全員が勝者になれるマラソン スポーツの魅力を知って生活に取り入れて欲しい

全員が勝者になれるマラソンスポーツの魅力を知って生活に取り入れて欲しい

全員が勝者になれるマラソンスポーツの魅力を知って生活に取り入れて欲しい

 中川俊男会長となって初めての新春対談には高橋尚子公益財団法人日本オリンピック委員会理事をお迎えし、マラソンの魅力を語ってもらうとともに、金メダルを獲得した2000年のシドニーオリンピックなどについて、振り返って話をしてもらった(昨年11月27日、日本医師会館で感染防止対策をした上で実施。写真撮影時のみ、マスクを外した)。

 中川 今回はお忙しい中、対談を快くお引き受け下さり、ありがとうございます。会長に就任してから初の新春対談ということで、ぜひ、高橋さんと対談できればと思っていました。
 以前、仙台国際ハーフマラソンに出場した際に、コースの途中で高橋さんにハイタッチしてもらったことを今でも覚えています。
 高橋 そうなんですね。今日はよろしくお願いします。
 中川 学生時代にはサッカーをやっていたんですが、医師になってからはマラソンが好きでずっと走っているんです。今、69歳なんですけれども、フルマラソンには18回出ました。
 高橋 18回もですか。すごいですね。
 中川 62歳の時は1年間で6回フルマラソンに出たんですが、そのうち、「サブフォー」(フルマラソンを4時間以内で完走すること)を4回達成することができました。
 高橋 62歳で「サブフォー」なんて、それはレベルが高いです。今、多くの方が、マラソンをされていますけれども、「サブフォー」は皆さんの憧れであり、なかなかその壁が破れないんです。
 中川 一度でも歩いてしまうと、絶対「サブフォー」はできないですからね。初めて「サブフォー」ができたのが「つくばマラソン」だったんですが、その前半と後半をほとんど同じタイムで走ることができました。
 高橋 それは理想的です。トップ選手に関して言えば、本来、後半が上がっていくネガティブスプリットのレースの方が良いと言われますが、一般ランナーは、最初に少し頑張ってタイムを稼いで徐々に落ちていくという方が多いので、後半にタイムが落ちない走りができるのは、やはり力がある証拠だと思います。
 中川 ありがとうございます。私達医師の中ではゴルフをやっている人が多いのですが、コースに出るにしてもみんなでスケジュールを合わせ、3~4人ぐらい集めなければなりません。しかし、走ることは、いつでも、どこでもできますし、出張へ行っても翌朝走れますので、私には合っているなと思っているんですよ。
 今でも、毎朝約8キロ走っているんですが、65歳を過ぎた辺りからは、5キロ続けて走れなくなってきてしまいました。時々止まって、歩いたり、また走ったりしています。
 高橋 走っていれば、そういった体の変化だったり、自分の体調が分かります。体や体調の変化を知ることって、すごく大切ですよね。普段の生活の中だとなかなかそういったものを自分で理解できないですし、体調管理ができないので、もっと多くの人達に、日常にスポーツを取り入れてもらいたいと思います。
 中川 今、コロナ禍の中で外に出ることが少なくなったことによって、生活習慣病が増加することを懸念しています。そういったことを防ぐためにもスポーツが習慣化されれば良いですね。
 高橋 そうですね。毎日10分でも20分でも体を動かすこと。特にランニングは、先ほど会長がおっしゃったように、時間帯も、人数も、場所も選ばないでできますし、今はランニングウェアもすごく華やかなものになっているので、女性も始めやすくなったと思います。より多くの方達に始めてもらいたいですね。

走者それぞれにドラマがあるマラソン

210120a2.jpg  中川 高橋さんにお聞きしたいのですが、マラソンの魅力とはどんなところにあると思いますか?
 高橋 マラソンというのは、42キロの間に苦しくなったり、楽になったりが繰り返されるもので、トップ選手でも、最初から最後まで楽に簡単に走れるということはそうそうありません。しかし、それを自分で励まして、解決して乗り切っていくことができるスポーツだと思うんです。
 中川 42・195キロの中に、走者それぞれのドラマがあるんですよね。
 高橋 そうなんですよね。マラソンというのは、ゴールしたことが終わりではなくて、ゴールした後の生活の中で苦しいことがあった時に、あの時の苦しいマラソンを乗り越えたから頑張れるんだというような、何かしら自分の支えになるような経験ができることが良いところだと思います。
 また、一般的にスポーツには勝ち負けがあるもので、マラソンのトップ選手にも、もちろん勝ち負けはあります。ただ一般ランナーの皆さんはマラソンでゴールができれば、全員が勝者になれるんです。「42キロ走るなんてすごいね」って、みんなにたたえられますし、たくさんの方に応援して頂いて、みんながうれしい気持ちになります。そういったところも、マラソンの魅力の一つだと思います。
 中川 私はマラソンを見るのも好きで、多くのレースを見ているのですが、高橋さんが出場した1998年のバンコクのアジア大会での走りはすごかったですね。
 高橋 そんな前のこともご存じなんですね。
 中川 あのレースは、気温が30度以上あったのではないですか。
 高橋 最後は35度ぐらいでしたね。
 中川 そんな過酷な状況の中で、高橋さんはすごい記録で金メダルを獲得されたんですよね。あれはすごいと思いました。
 高橋 あのレースは、全日本実業団対抗女子駅伝(公式愛称:クイーンズ駅伝in宮城)に出場してから1週間後のレースだったんですが、スタート直後から、駅伝のために10キロ地点で力を出せる練習をしていた勢いで走り出してしまったんです。
 監督からは「ペースを落とせ」と2キロ地点ぐらいから繰り返し言われました。けれど、スピードに乗ってしまっていたので落とせないというのがあって、もう行けるところまで、行ってしまおうとの思いで走り続けました。
 中川 最後まで速いペースで走り続けられたんですか?
 高橋 30キロ地点までは、その時の世界記録をもう2分ぐらい上回るようなタイムだったんですよ。
 中川 それはすごい。
 高橋 でも、30キロからは未知の世界でした。そこからはちょうど目の前に映る景色も、「これは陽炎(かげろう)なの?」というぐらいに揺れるほど暑くて、湿度も90%以上の蒸し風呂みたいなところを走っていたので、タイムがぐっと落ち込んでしまいました。
 「もうやめようかな」とか、「きついな」という気持ちもよぎったんですが、タイムを見ると日本記録を4分ぐらい上回っていたので、「もったいない」という気持ちが原動力となって、ゴールすることができました。
 これから本格的にマラソンをやろうと思っていた時で、すごく自信にはなりました。
 中川 今年は1年延期となった東京オリンピック・パラリンピックの開催の年ですが、日本医師会では日本の夏の暑さによる熱中症を心配しています。しかし、その時の状況を考えると、東京の暑さなんて、選手にとってはあまり問題ない気もしてきますね。
 高橋 マラソンは本来だったら気温10度前後というのが理想で、25度は暑いです。ただ、選手は暑いと言われている時でも、それに合わせてしっかり調整してきますし、調整能力もその人の実力のうちだと思うので、準備をしてくれるのではないかなと思います。
 それと、選手を支える周りのスタッフの力も大きいと思います。2019年に世界陸上が行われたドーハも暑かったんですが、競歩であれだけ日本人が活躍できたのは、科学班やサポートをするスタッフの人達がフル活動でサポートしてくれたからだと思います。
 他国の方は、水を出したらそのまま選手が通り過ぎるのを待っているスタッフが多い中、日本だけはスタッフもすごくハードに動かれていて、A選手が来たら氷、B選手が来たらこの水というように、来た選手一人ひとりに対して、すぐに体温調節ができるようなノウハウをしっかり積み重ねたものを提供していました。
 その一体感が好成績をもたらしたんだなと思いますし、そういったところも今度の東京オリンピック・パラリンピックで生かしてくれるといいと思います。
 ただ心配なのは、ボランティアやスタッフの方、応援の方、こういう方々の暑さ対策です。やはり事前に専門的な方々からのしっかりとしたアドバイスも必要ですし、万が一に備えた準備も必要ですね。
 中川 そうですね。日本医師会としても万が一に備え、開催地の医師会とも連携を取りながら、準備を進めていきたいと思います。
 今度の東京オリンピックのマラソンは札幌で行われますが、見どころがあれば教えて下さい。
 高橋 札幌は周回コースで、北海道大学の構内を走る予定になっているんですが、北大の中は割と木々も多くて、非常に走りやすいコースです。最後はちょっと曲がり角も多いですが、勝負を仕掛けやすくて、面白い地点になるのかなと思っています。

大事なことは勝負所を察知すること

210120a3.jpg  中川 今から楽しみですね。オリンピックと言えば、2000年のシドニーオリンピックの時は、走る前から金メダルを取れると思っていたのですか?
 高橋 はい。取るという気合が入っているのではなく、自然と取れる気がしていました。
 オリンピックでは走り終わったらすぐに表彰式があるので、そこで何を着るのかを最初に準備しておかないといけないと思い、小出義雄監督には走る前から「表彰式って何を着ればいいですか」って聞いていたぐらいです。監督からは「おまえは走る前からもう表彰台に乗る気満々だなあ」と言われてしまいました(笑)。
 でも、日々全力で練習をしていましたし、今の自分を発揮するだけでいいというような、何かそんな開き直った思いがありました。自然体でいればいいというのが金メダルの獲得につながったと思います。
 中川 それくらいの気持ちでないとオリンピックでは勝てないですね。あのレースではサングラスを投げたシーンが印象的でしたが、あれはどうするつもりだったんですか?
 高橋 最初は、小出監督に向けて投げるつもりだったんです。小出監督は基本的にレースの前に「こういうレースをしなさい」とか、「ここで飛び出しなさい」というような、レースの内容に関しては全く指示がないんです。前日の夜も部屋に呼ばれたんですが、「自信をもって挑んできなさい」とだけしか指示はしてもらえなくて、ただ「俺が20キロと30キロにいて声を掛けるからな」と言われていました。
 実際に20キロ地点では一番のライバルだったケニアのロルーペ選手がいないことを教えてくれたんですが、30キロ地点ではどこにもいらっしゃいませんでした。
 私はそのことを知らないですし、その地点ではルーマニアのシモン選手と一騎打ちで、これから必ず来る勝負の瞬間を見逃さないためにも、サングラスをはずして頭をクリアにしておきたかったので、必死で監督を探しました。
 後から聞いたところによると、監督自身は20キロ地点の姿を見て勝ったと思って、そのままビールを飲んでゴール地点に向かっちゃったらしいんです(笑)。
 2万円もするサングラスをそこら辺に投げるのは嫌だと思っていた時に、道の反対側の歩道に偶然父親を見つけたんです。父親に何とかこのサングラスを取ってもらおうと思って、投げたんですけど、真横にシモン選手もいらして、そのまま投げると走路妨害になって失格になると思ったので、ちょっと前に出て、サングラスを投げたんです。
 でも、並走中の中継バイクに当たって戻ってきてしまって、「うわ、ショック」と思った時に、シモンさんがその差を詰めてこないことに気づきました。
 本当に勝負の瞬間っていうのは一瞬で、そこで明暗が分かれます。スパートは相手がきつい時に掛けた方が、効果があるんですね。その時も、足音や汗のかき方や呼吸の状態を、並走しながらずっとお互いに観察してたんでしょうけど、なかなか相手の苦しいところが察知できませんでした。
 でも、私が前に出てサングラスを投げて戻ってくるまでの1~2秒、シモン選手はその差を詰めてこなかったんです。その時が勝負の瞬間でした。父親を見つけた→前に出た→投げた→戻ってきた→ショック→今だ、行ける!ということを、その時は多分3~4秒の間に判断したんだと思います。
 中川 うーん、勝負どころね。
 高橋 大事なのは勝負どころの察知ですね。
 中川 それはマラソン以外でもいろいろありますね。
 高橋 そうですね。そこで躊躇(ちゅうちょ)して何か考えてしまう時間があると、チャンスを逃してしまいます。
 やはり私はチャンスは1回きりと思っていますし、そこと思ったら、先のことをあまり気にせず、勝負することが大事だと思います。
 中川 1回きりのチャンスって、ありますよね。私も昨年の会長選挙の時は、そう思いました。人生も一つのドラマと考えるとそういう勝負どころとかがあるわけで、フルマラソンと同じで、非常に勉強になります。
 高橋 マラソンは一人で孤独だと言われるスポーツですけれども、決してそうではなく、自分をここまで強くするためにスケジュールを立ててメニューをつくり、また気持ちを盛り上げて下さった監督、けがをしないようにサポートしてくれたトレーナーやしっかりとした体づくりのために栄養管理をしてくれた栄養士の方、また、私も担当医がいて、何かがあってもこの人がどうにかしてくれるというような心のサポート、そしてもちろん、皆さんの応援だったりという部分もあって、初めて金メダルが取れたのだと思います。
 なので、今でも金メダルを見る時は、ここが監督の金、ここがトレーナーの金というような気持ちでよく見ます。自分の選手の立場の金メダルというのは、駅伝だと最後のアンカーみたいなもので、最後のたすきを42キロというところで私は受け取ったような感じがするので、これで優勝しなければ、みんなが金メダルを取るためにしてきてくれたことを証明できないなという、何かそういう責任感みたいなものもありました。

医療従事者には感謝の思いしかない

210120a4.jpg  中川 ところで、高橋さんには担当医がいらしたとおっしゃっていましたが、その方はどのような方だったんですか。
 高橋 私自身には現役時代3名の担当医がいました。実は、もうその3名とも亡くなられてしまったんですけれども、やはりその方々がいらして下さったことで、思い切って自分のやりたいことができたと思っています。
 けがをするかも知れない、でも、今やらなかったら世界で金メダルを取れない、その選択肢が迫られる時が必ずオリンピックまでにあるんですね。そこでけがを恐れて一歩引いてしまったら、そこで終わってしまう。ただ、その時に、私にはちゃんと見守ってくれる先生がいる、何かあったらすぐに相談ができる先生がいるということは、すごく大きな支えでした。また、私以上に何かちょっとした変化を見つけ、的確な判断と指示を随時に出して頂けたことは、とてもありがたかったと思っています。
 中川 そういう先生方のバックアップがあったんですね。今のコロナ禍にあって、健康のことを何でも相談できる「かかりつけ医」の存在はますます重要になっていますし、日本医師会でもできるだけ多くの人に「かかりつけ医」をもってもらいたいと思っています。
 ぜひ、高橋さんのような影響力のある方に、引き続き、信頼できる医師、つまりは「かかりつけ医」をもつことの重要性についてお話ししてもらえるとありがたいです。
 ところで、今年は東日本大震災の発災から10年になるんですが、高橋さんは発災1カ月後には被災地に行かれたそうですね。
 高橋 私が被災地に行かせてもらったきっかけとなったのは、2009年に始めた「スマイルアフリカプロジェクト」というものでした。
 アフリカには靴を履けない子ども達がたくさんいて、そういった子ども達はちょっとした傷から破傷風などの感染症になるということを、恥ずかしながら現役を終えて知ったんです。私にとって靴というのは、とても大切な、一緒に立ち向かう同志のような存在であったのに、靴を履いたことがない子どもがいることに驚かされました。
 日本には、奇麗だけれども大きさが合わなくなって履けなくなった靴がたくさんあります。それを回収してアフリカの子ども達に送るというプロジェクトを、現役を引退した次の年から始め、11年間で約10万足をアフリカに送らせてもらいました。
 東日本大震災が起こった時に、プロジェクトのことを知っていた被災地の方から、みんな急いで逃げたために、被災地に靴が不足しているという電話がありました。そこで、プロジェクトで話し合い、すぐに靴を持って被災地に行かせてもらいました。
 また、その際には、ずっと避難所にいて体を動かしていない方も多くいましたので、エコノミー症候群にならないように、体を動かすようなトレーニングも、避難所を回って皆さんと一緒にさせてもらいました。
 中川 それは避難者の皆さんには、さぞかしありがたいことであったと思います。
 日本医師会でも東日本大震災の際には都道府県医師会の皆さんのご協力を得て、被災地にJMATという日本医師会災害医療チームを派遣させて頂きました。
 昨今は地震だけでなく、豪雨災害なども多くなっていますが、東日本大震災で得られた経験を教訓として今後も活動を続けていきたいと思います。
 最後に、医師の皆さんに向けて高橋さんからメッセージがあればお聞かせ願えますか。
 高橋 このコロナ禍という過酷な状況の中で、最前線で働いている医療従事者の皆さんには、本当に感謝を申し上げたいという思いしかありません。
 そうした感謝の気持ちも、今は形で表す時期なのではないかと考え、寄付金と共に医療従事者の方々への励ましの言葉を送ってもらう「コロナ給付金寄付プロジェクト」という事業を始めています。
 マラソンをする上でも、多くの医療従事者の皆さんのサポートを頂いて初めて大会を安心安全に行うことができます。また、スポーツを盛り上げるためにも医療従事者の皆さんの存在がとても大切です。医療従事者の皆さんの活躍に心より感謝し、また応援をしています。また、多くの方が笑顔になれるようにみんなで力を合わせて頑張りましょう。
 中川 ありがとうございます。高橋さんの熱い思いは本紙面を通じて必ず伝わると思います。今日は、ありがとうございました。
 高橋 こちらこそ、大変な状況の中で、ありがとうございました。ぜひ、これからも走り続けて下さい。

高橋 尚子(たかはし なおこ)
(公財)日本オリンピック委員会理事
 1972年岐阜県生まれ。1998年名古屋国際女子マラソンで初優勝して以来、マラソンレースで6連勝を果たし、2000年シドニーオリンピックで金メダルを獲得。同年には国民栄誉賞を受賞している。2008年に現役引退を発表、現在はスポーツキャスターやマラソン解説者として活躍されるとともに、公益財団法人日本オリンピック委員会理事などの要職を務めている。

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