医師への軌跡

医師の大先輩である大学教員の先生に、医学生がインタビューしてきました。

教育することは未来の仲間をつくること
志水 太郎
獨協医科大学病院 総合診療科・総合診療科教育センター 
診療部長・センター長

渡米への強い思い

渡邉(以下、渡):志水先生はアメリカに留学され、ハワイ大学で臨床経験を積んだり、カザフスタンなど様々な国で医学生や研修医を指導されたり、海外経験が非常に豊富でいらっしゃいますよね。海外を目指されたきっかけは何でしたか?

志水(以下、志):学生時代から漠然と海外に憧れていましたが、本気で目指し始めたのは、日本の感染症診療の第一人者の一人である、青木眞先生にお会いしてからです。臨床研修中にたまたま参加した勉強会で、講師として感染症のことを実に鮮やかに解説なさる青木先生のお姿に感銘を受け、感染症専門医を目指すようになりました。

臨床研修終了後は、まずは内科全般を学ぼうと、大阪市立堺病院(当時)の総合内科のレジデントになりました。でも同時に、青木先生が過去にアメリカで働いていらしたこともあり、渡米への思いがどんどん強くなっていました。加えて、先進的な環境で、感染症や集中治療の専門的なトレーニングを積みたいという思いもあった。それで後期研修が終わる頃、まず沖縄の米国海軍病院の採用試験を受けたんです。当時は受かった気満々で、送別会まで開いていただき、これから海軍病院で頑張るんだ、と張り切っていました。

ところがなんと、試験には不合格だったんです。快く送り出してもらった手前、堺病院には戻れない。とにかくアメリカに行くしかないと思って、MPHやMBAなどの大学院を受け、何とか合格しました。

そしていざ渡米して大学院に通おうという段になり、はたと「自分にはお金がない」ということに気付いたんです(笑)。それで、大学院の授業は週の前半に固め、木曜から日曜は日本に帰り、全国の病院でアルバイトをして学費を工面することにしました。後輩から勉強会の講師に呼ばれることもあり、診療の合間を縫って講義しました。

:過酷な生活ですね…。

:睡眠は飛行機の中で取る日々で、体力的にはとても大変でした(笑)。でも、様々な医療機関で働き、多様性を肌で感じたこの時の経験は、今の自分に活きていると思います。

教育は「仲間を作る」こと

:大学院を修了後、アメリカで臨床に携わったのですか?

:それが、USMLEに何度か落ち、受かってからもマッチングの段階で失敗し、定職はなかなか得られませんでした。とにかくアメリカにいさえすれば何とかなるんじゃないかと、ビザが続く限り粘っていましたが、そのうち青木先生に勧められ、日本で組織に所属して社会貢献することも考えるようになりました。そしていよいよビザが切れるという年に、お世話になった先生から練馬光が丘病院の総合診療科立ち上げの話をいただいたんです。8年目ながら中核メンバーの一人となり、次年度から後期研修医を受け入れるため、プログラム作成やスタッフの確保に奔走し、立ち上げは大成功でした。その後、ハワイ大学にマッチングすることができ、再び渡米しました。

:そして帰国後、獨協医科大学で総合診療科を立ち上げられたんですよね。

:はい。ご縁が重なり、若手で大学病院の部門長を任されたことはとてもありがたかったです。僕らの世代がこれからの総合診療を盛り上げていかなければ、と強く思います。

:先生は、アメリカ留学中も帰国した今も、後進の教育に注力されていますね。

:ええ。若い世代と一緒に考え、悩むことは楽しく、また経験の少ない人にも伝わるよう知識を整理することは、自分の勉強にもなります。そして何より教育とは、自分の未来の仲間を作ることです。彼らが成長したら一緒に働く同志になってくれると思うと、非常にわくわくしますね。

志水 太郎
獨協医科大学病院 総合診療科・総合診療科教育センター
診療部長・センター長
2005年愛媛大学医学部卒業。2011年エモリー大学ロリンス公衆衛生大学院修了、カリフォルニア大学サンフランシスコ校臨床研究員。2013年ハワイ大学内科。日本では練馬光が丘病院・東京城東病院・獨協医科大学病院にて総合診療科・総合内科の立ち上げに携わる。2016年より現職。

渡邉 彩佳
獨協医科大学 医学部 3年
志水先生の授業を受けて以来、「こんなすごい先生がいらっしゃるのか」とずっと憧れていたので、直接お話を聞けてとても嬉しかったです。「夢は諦めたらそこで終わり」という先生のお言葉を胸に、これからも頑張りたいです。

No.23