日本の予防接種のこれから(前編)

新型コロナウイルスワクチン接種からの学び

新型コロナウイルス感染症の流行を通じて、日本の感染症対策や予防接種政策の様々な課題が明らかになりました。

日本の予防接種はこれからどのような方向に向かっていくのでしょうか?

安全保障の観点から感染症対策を行う重要性

感染症対策は、基本的には地域や国に住む人々の健康レベルを増進するという公衆衛生の観点から行われるものです。しかし、感染症のアウトブレイクといった危機が発生した際には、その脅威から国民の生命・健康・財産や社会経済活動の安全を守るという、安全保障や危機管理の観点から対処する必要があります。

安全保障とは、もともとは「国外の軍事的な脅威や攻撃から国の領土や政治的独立、国民の生命や財産を守る」という意味で使用されることの多い言葉でしたが、時代が下るにつれ「脅威」が指す対象の範囲が広がってきており、最近の国際社会では、地球環境やテロ、感染症といったトピックについても安全保障という考え方で捉えることが多くなっています。実際、今回の新型コロナウイルス感染症のパンデミックに際しては、アメリカやドイツといった先進諸国は、国家安全保障を担当する部局が政府の中核となって対応にあたっています。

これまで、感染症対策に対する安全保障という観点や、有事と平時を区別して対応するという発想が薄かった日本でも、新型コロナウイルス感染症のパンデミックを通じてその重要性が強く認識されるようになりました。

平時からのワクチン開発体制の構築

感染防止・発症防止・重症化防止の効果があるワクチンは、平時の公衆衛生上の保健事業としてはもちろん、安全保障の観点からも非常に重要な位置を占めます。特に国際的なパンデミックの際は、国産ワクチンを十分に開発・製造できる体制を構築しておかないと、質が高く安全なワクチンの速やかな確保が難しくなってしまう可能性があるのです。

感染症のアウトブレイクという有事に際して十分な対処をするためには、平時からの備えが欠かせません。しかし、平時においてはしばしばその準備の重要性が認識されず、おざなりになることがあります。例えば日本では、予防接種が普及して感染症の罹患リスクが減少したことで、ワクチンの副反応のリスクの方が目立ってしまい、接種率の低下や予防接種政策の後退を招いたことは、 予防接種にまつわる歴史でも述べたところです。製薬業界にとっても、ワクチンを含めた感染症に対処する医薬品の開発による利益があまり見込めなくなった結果、国産ワクチンの開発力の低下を招きました。政府のリーダーシップと支援のもと、産官学が一体となって、平時からワクチンの十分な開発・製造体制を構築しておくとともに、日本に住む人々にワクチンや予防接種への理解を促していくことが、今後ますます重要になると考えられます。

 

 

日本の予防接種のこれから(後編)

MESSAGE
今回の新型コロナウイルスワクチン接種を振り返って

釜萢 敏 日本医師会常任理事

日本の予防接種体制の強みと課題

――今回の新型コロナウイルスワクチン接種では、今までに類を見ない規模とスピードで予防接種が行われました。そのなかで見えてきた、良かった点や日本の強みなどについて教えてください。

釜萢(以下、釜):新型コロナウイルスワクチンの接種で良かったことは、日本に住む多くの方々にワクチンの必要性や効果が幅広く周知され、理解と納得を得ることができた点でしょう。新型コロナウイルスワクチンに限らず、日本で行われている定期や臨時の予防接種はあくまで努力義務であり、「積極的に受けたい」と思った人に受けていただくという大前提があります。ですから、ワクチン接種を推進するためには、正しい情報をいかに人々に知らせて納得していただくかという点がとても重要になるのです。今回の新型コロナウイルスワクチン接種では、「納得しやすい情報の周知」という点で非常にうまくいったと考えられます。今後また新興感染症が発生し、ワクチンの大規模接種を行うことになった場合にも、この経験は活かしていけることでしょう。

日本では、かかりつけ医を持つ人が多く、身近な医療機関やよく知っている医師に直接質問をして情報提供を受けられる体制があったことは、人々の疑問や不安を極力少なくすることに大いに役立ったと考えられます。

――新型コロナウイルスワクチン接種を通じて見えてきた、日本の予防接種体制の課題についても教えてください。

:日本では、2021年2月から医療従事者を対象とした接種を開始しました。海外の一部の国では、2020年末からワクチン接種が始まっていたので、2~3か月ほど遅れをとったことになります。

その原因の一つとして、日本が世界に先駆けてワクチンを開発する準備ができていなかったということがあります。ワクチンを含めた新薬の開発には莫大な資金が必要となりますが、国内の製薬メーカーは欧米に比べて小規模であり、また国からの資金援助も乏しかったために、開発を行う余力がありませんでした。国もこの事態を受けて、欧米諸国に比べればまだまだ見劣りはするものの、従来と比べてかなり高額のワクチン研究開発費を確保するようになりました。日本医師会としても、より副反応が少なく、より効果が持続するワクチンの開発は非常に重要と考えていますので、引き続き、ワクチン開発体制の一層の拡充を国に訴えていきたいと思います。一方、それでも開発がうまく進まず、輸入ワクチンしか手に入らないという状況も考えられますので、国としてしっかりワクチンを確保する体制を築くことも必要です。

また、迅速な薬事承認という部分にも課題があります。ワクチンも含め新薬の承認にあたっては、国内で日本人に対する治験を十分に行ったうえで承認することになります。ただし、今回のようなパンデミックの際は、治験や承認の過程をより迅速に行っていく必要があるでしょう。

さらに、地域ごとの状況を踏まえた配送網の整備や、各自治体へのワクチンの無駄のない適切な配分、マイナンバーカード等を利用した円滑な接種体制の構築、記録情報の速やかな共有等も、今後もっと整備されていくべきでしょう。例えば接種記録情報については、当初は主に「ワクチン接種円滑化システム(V-SYS)」が利用されましたが、情報の読み込みにかなりの時間がかかってしまうといった問題がありました。よりリアルタイムに情報共有できるシステムの構築が望まれます。

医学生・若手医師に知ってほしいこと

――新型コロナウイルスワクチンの接種の様子を見て、ワクチンに興味を持った医学生・若手医師も多いと思います。そうした若い人たちへのメッセージをお願いします。

:やはり、ワクチンや予防接種の重要性について、しっかりと理解を深めてほしいと思います。そのうえで、予診やワクチン接種後の体調変化のフォローについても、ガイドラインや冊子を読むなどして、今のうちからよく知っておいてほしいです。

そして、ワクチン接種に限らず、コロナ禍に際して痛感したことは、一人ひとりの医師ができるだけ幅広い領域を修めておくことの重要性です。若い皆さんも、なるべく幅広い領域を修められるよう努力してほしいと思います。もちろん専門性を極めていくことは重要ですが、自分の専門分野以外を学ぼうとしないことは、自分のためにも地域医療のためにもなりません。今後は、一人ひとりの医師がなるべく幅広い領域で役立てるようになっていかないと、必要な医療が提供できなくなってしまいます。ぜひ、普段から幅広い分野に関心を持ち、積極的に様々な領域に自分の能力を伸ばしていただきたいと思います。

また、今回のワクチン接種が迅速に進んだ要因に、多くの医療従事者が積極的に接種業務に尽力したことが挙げられます。皆さんも、今回のような非常事態の際には、積極的に現場に飛び込み、自分のできること、果たせる役目を全力で果たしてほしいと思います。

 

 

※取材:2021年11月
※取材対象者の所属は取材時のものです。

 

 

 

第40号特集「予防接種を知る」参考文献一覧

【予防接種を知る】

・尾内一信・高橋元秀・田中慶司・三瀬勝利(2019), 『ワクチンと予防接種のすべて 見直されるその威力(第3版)』, 教文堂
・山内一也・三瀬勝利(2014), 『ワクチン学』, 岩波書店

【予防接種にまつわる歴史】

・岩田健太郎(2009)「予防接種行政に必要なのは日本版ACIP」 『週刊医学界新聞』<https://www.igaku-shoin.co.jp/paper/archive/y2009/PA02857_03>, 医学書院, 最終閲覧2022/01/05
・加藤茂孝(2010)「人類と感染症との闘い―『得体の知れないものへの怯え』から『知れて安心』へ―第5回『ポリオ』-ルーズベルトはポリオではなかった?」 『モダンメディア』56(3), pp.61-68.
・厚生労働省(2022),「結核とBCGワクチンに関するQ&A」<https://www.mhlw.go.jp/seisakunitsuite/bunya/kenkou_iryou/kenkou/kekkaku-kansenshou/bcg/index.html>, 最終閲覧2022/01/05
・厚生労働省健康局長通知(2021), 「ヒトパピローマウイルス感染症に係る定期接種の今後の対応について」(健発1126第1号)
・国立感染症研究所(2022),「日本脳炎Q&A 第5版」
<https://www.niid.go.jp/niid/ja/je-m/524-idsc/6974-qaje-v5.html>, 最終閲覧2022/01/05
・齋藤昭彦(2014)「過去・現在・未来で読み解く、日本の予防接種制度」 『医学界新聞』
<https://www.igaku-shoin.co.jp/paper/archive/y2014/PA03058_02>, 最終閲覧2022/01/05
・厚生労働省(2010),「子宮頸がん等ワクチン接種緊急促進臨時特例交付金の概要について 全国都道府県担当者会議(子宮頸がん等ワクチン接種緊急促進臨時特例交付金)資料2」,
<https://www.mhlw.go.jp/bunya/kenkou/other/dl/101209b.pdf>, 最終閲覧2022/01/05
・厚生労働省(2019),「接種類型と定期接種化プロセスについて 第34回厚生科学審議会予防接種・ワクチン分科会予防接種基本方針部会資料2-2」, <https://www.mhlw.go.jp/content/10906000/000550939.pdf>, 最終閲覧2022/01/05
・辰巳秀爾(2016)「昨今の予防接種行政の課題」,国立感染症研究所平成30年度感染症危機管理研修会資料
・田中政宏(2010), 「予防接種――公衆衛生事業としての意義とわが国の課題」『医療経済研究』22(1), pp. 5-29.
・多屋馨子(2013)「Hibワクチン定期接種化に至るまでの経緯と小児ワクチン接種の現状」 『病原微生物検出情報月報(IASR)』34(7), pp.199-201.
・戸井田一郎(2004), 「BCG の歴史:過去の研究から何を学ぶべきか」 『呼吸器疾患・結核資料と展望』48, pp.15-40., 公益財団法人結核予防会結核研究所
・中山哲夫(2012), 「わが国のワクチン行政の現状と問題点」 『日本耳鼻咽喉科学会会報』, 115 (6), pp.605-611.
・中山哲夫(2019), 「ワクチン接種後の有害事象と副反応」 『感染症学雑誌』93(2), pp.493-499.
・農林水産技術会議事務局技術政策課(2009), 『[海外調査資料53]欧州における家畜の粘膜免疫ワクチン開発に関する研究動向調査』, 農林水産省
・福見秀雄(1985), 「インフルエンザワクチンの歴史」 『ウイルス』35(2), pp.107-122., 日本ウイルス学会
・森田林平(2021), 「研究者への社会的要請と自由な発想」 『日本医科大学医学会雑誌』17(2), pp.88-89.
・山内一也(2017), 「ムンプスとムンプスワクチン」 『モダンメディア』63(11), pp.263-267.
・山内・三瀬 前掲書
・吉川哲史(2018)「水痘ワクチンの効果」 『病原微生物検出情報月報(IASR)』39(8), pp.4-5.
・李啓充(2011)「〔連載〕続 アメリカ医療の光と影 第195回 アウトブレイク(10)」 『週刊医学界新聞』
<https://www.igaku-shoin.co.jp/paper/archive/y2011/PA02924_04>, 医学書院, 最終閲覧2022/01/05

【予防接種を支える仕組み】

・ICHガイドライン E8(1998),「臨床試験の一般指針について(医薬審第 380 号)」
・一般社団法人日本ワクチン産業協会(2021), 『予防接種に関するQ&A集(第21版)』
・一般社団法人日本ワクチン産業協会(2021), 『ワクチンの基礎』
・医薬品医療機器総合機構(2019), 「令和元年度のこれまでの事業実績と今後の取組みについて<審査・安全対策等業務>」, <https://www.pmda.go.jp/files/000233224.pdf>, 最終閲覧 2022/01/05
・尾内・高橋・田中・三瀬 前掲書
・厚生労働省(2022),「定期接種実施要領」<https://www.mhlw.go.jp/content/000620096.pdf>, 最終閲覧2022/01/05
・厚生労働省医薬食品局審査管理課長通知(2010), 「感染症予防の非臨床試験ガイドライン」(薬食審査発0527第1号)
・厚生労働省医薬食品局審査管理課長通知(2010), 「感染症予防の臨床試験ガイドライン」(薬食審査発0527第5号)
・厚生労働省健康局結核感染症課(2013), 「予防接種制度について」 第1回厚生科学審議会予防接種・ワクチン分科会研究開発及び生産・流通部会参考資料11<https://www.mhlw.go.jp/stf/shingi/2r98520000033079-att/2r985200000330hr_1.pdf>, 最終閲覧2022/01/05
・厚生労働省(2019),「接種類型と定期接種化プロセスについて 第34回厚生科学審議会予防接種・ワクチン分科会予防接種基本方針部会資料2-2」, <https://www.mhlw.go.jp/content/10906000/000550939.pdf>, 最終閲覧2022/01/05
・厚生労働省(2021),「新型コロナワクチンの副反応疑い報告基準の設定について 第51回厚生科学審議会予防接種・ワクチン分科会副反応検討部会、第11回薬事・食品衛生審議会薬事分科会医薬品等安全対策部会安全対策調査会(合同開催)資料2」,<https://www.mhlw.go.jp/content/10601000/000739053.pdf > , 最終閲覧2022/01/05
・厚生労働省(2021), 「本事業の概要 ワクチンの流通情報の基盤整備に向けた検討会 第1回検討会資料3」, <https://www.mhlw.go.jp/content/10901000/000869047.pdf>, 最終閲覧 2022/01/05
・厚生労働省(2021), 「関係者が保有している情報 ワクチンの流通情報の基盤整備に向けた検討会 第1回検討会資料5」, <https://www.mhlw.go.jp/content/10901000/000869049.pdf>, 最終閲覧 2022/01/05
・日本ワクチン産業協会(2018),「『ワクチンの安定供給に向けて』ワクチン製造の立場から」(厚生労働省厚生科学審議会予防接種・ワクチン分科会研究開発及び生産・流通部会 資料1-3)<https://www.mhlw.go.jp/content/10601000/000352294.pdf>, 最終閲覧2022/01/05
・山内・三瀬 前掲書

【日本の予防接種のこれから】

・阿部圭史, (2021)『感染症の国家戦略―日本の安全保障と危機管理』, 東洋経済新報社