医師のみなさまへ

2023年2月20日

第6回 生命(いのち)を見つめるフォト&エッセー 受賞作品
一般の部【審査員特別賞】

「終わり良ければすべてよし」

小髙 綾乃(40歳)東京都

 父はとにかく無口な人だった。未だに私の40年ほどの人生で、父よりも無口な人に出会ったことはない。愛娘の私や姉が話しかけても、基本的に返事さえない。ところが、動物とは話題がとぎれないようで、常にくっついている飼い犬には冗談を言い、近所の野良猫からは、毎朝とかげの貢ぎ物が届いた。そんな父を夫は密かに「ムツゴロウ」と呼んでいた。そんなこんなで、父の返事がないのは了承の証というのが家族の暗黙の了解だった。

 そんな父が肺がんになった。母からの依頼で父の診察に同席した私に見せられたのは、想像のさらに上をいく深刻度の検査結果だった。がんはすでに全身に広がっていた。中でも、脳画像に写る無数の白い影の不気味さに私は言葉を失った。担当の医師からは、父のがんは肺がんの中でも進行が早く、抗がん剤が効きやすいものであること。手術での根治は不可能で延命治療のみ。使用可能な抗がん剤の種類も限られることの丁寧な説明があった。仕事とはいえ、こんなことを言わなければならない担当医が気の毒にさえ思えた。

 この日から私はひたすら泣いた。父が死んでしまったら。脳転移で父が悪魔のような人格になってしまったら。母の今後はどうしたらいいのか。ありとあらゆる不安が襲ってきた。全てが怖かった。でも、泣くだけ泣いたら、泣いている時間がもったいないことに気がついた。父に残された時間を無駄にできない。手あたり次第肺がんについての本を読み漁り、良さそうだと思ったものを買い漁り父に送りつけた。抗がん剤副作用の脱毛対策用帽子、食欲不振時の栄養剤、栄養補給のための青汁などなど。父にとって一番良いことをしようと考えていた私はすぐに壁にぶち当たった。全く喜ばれないという壁だった。
「こんないかにもがん患者みたいなものを被らせて、がんアピールさせたいのか。」と帽子をつき返され、「こんなまずいもの飲ませて痩せさせたいのか。」と青汁もつき返された。普段無口な父が、家族に文句のある時だけは饒舌じょうぜつだったことを思い出した。そうそう、これぞ我が父だ。そこで私は父にとって一番良いことをしようと考えるのをやめた。

 元来私は末っ子のわがまま育ち、人のためになんて価値観ゼロの人間だ。そんな私が、あの父のことなんて分かるわけがない。父のためではない。私がしたいことをしようと決意した。

 そんな娘をどう見ていたのか、父は抗がん剤治療、放射線治療と一度も弱音を吐くことなく頑張った。一時は進行を抑えられたが、闘病生活1年をすぎた頃から父の病状の悪化に拍車がかかった。3度目の意識不明に陥る前日、父は母に「今までお世話になりました。」と言った。翌日、緊急搬送される救急車の中、動かない口で父は私に何かを言った。私は、「ありがとう」だったと確信している。

 父の最後の入院期間約1ヶ月、もう何も話せない父の横で母は毎日泣いていた。そんな母に担当医は「貴重な時間ですよ。」と言ったそうだ。私は母と幼い息子と父の横でたくさん話をした。もともと無口な父が話さないことに何の違和感もない家族団らんだった。いや、むしろ父が話さないのをいいことに、私は父に色々とねだった。父の返事がないのは了承の証、父愛用の画材セットもとっておきの一張羅もみんなみんな私のものにした。

 私が物心ついた頃からほとんど自宅に戻らず、がむしゃらに働いてきた父。仕事を引退した後は、ひたすら趣味の創作活動に没頭し、自室に閉じこもっていた父。これまで、まともに父と一緒にすごすことなどなかった。父のがんは、父と私にたくさんの会話をもたらしてくれた。「あの最後の1ヶ月が、お医者さんの言った通り、貴重な時間になったわ。」と後に母が言った。

 それから間もなく、担当医師の休みの日、母も私もいない明け方、父は一人静かに旅立った。無口で目立つことの嫌いな父らしい、「見送りなんて大げさなこといらないよ。」なんて言っているような旅立ち方だった。

 あれから5年。実家の父の部屋には元野良だった猫達が我が物顔で暮らしている。父の一張羅は長男のスーツに、画材は次男のお絵かき用に生まれ変わった。父に会えない寂しさはなくなることはないけれど、後悔していることは何もない。むしろ、父のがんは私にたくさんのものを残してくれた。

 無口な父の最期の言葉が家族への感謝だったように、私も旅立つ時には家族への感謝を胸に旅立ちたい。そのために、私は私が後悔しないように、今日も私がしたいことをして生きていこうと思う。

第6回 受賞作品

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生命(いのち)を見つめるフォト&エッセー