医師のみなさまへ

2023年2月20日

第6回 生命(いのち)を見つめるフォト&エッセー 受賞作品
中高生の部【優秀賞】

「「意思疎通」は難しい」

武知 涼太(16歳)愛媛県

 小学6年生の冬、私は意思疎通することの難しさを痛感した。なぜなら「大好き」そんな簡単なことも言えなかったからだ。

 小学5年生になって友達も増え、健康で明るい楽しい生活を送っていた。また思春期真っ只中で、親に素直になれない我ままな子どもであった。しかし反抗期だったとはいえ、家族のことが大好きだった。正直今の幸せな生活が、ずっと続けばいいなと思っていた。

 もうすぐ春を迎え暖かくなってきた日のこと。いつも通り帰宅しゲームをし始めた。すると母が、
「大切な話があるから聞いてくれる?」と、言ったので何だろうと思った。そして、母が告げたのは、「がん」になったということだった。あまりの衝撃に言葉を失った。そして不安定な気持ちを落ち着かせるために、深呼吸をした。長い沈黙が続いた。風が窓をたたく音がよく聞こえた。しばらくして、母が泣き始めた。素直になれない私は、泣きたかったけれども親の前では泣かなかった。その後母と一緒に欲しい物を買いに行った。普段は高くて買わないようなものを、奮発して買ってくれた。その時母が見せた笑顔は、どこか悲しさを浮かべているような気がした。

 小学生だったので「癌に対する知識」はあまりなかった。強いて言うならば、ドラマで少し見たくらいだった。しばらくして私は、
「母はこれからどうなるのだろう」と、思い始めた。そしてネットを探していると、「死」という文字がたくさん出てきた。この時初めて人の生死を実感した。そして家族の一員として癌をもっと知るべきだと思った。

 小学6年生に進級し、何事もなくあっという間に夏休みが来た。大きな病院で私と同じような、親が病気の子ども向けの交流会があることを知り、参加させてもらった。そこで顕微鏡で「癌」を見たり、点滴の仕方を教えてもらったりした。何よりも親が「癌」なのは、自分だけじゃないという安心感に包まれた。また親身になって話を聞いてくれる、優しい医師とも出会うことができた。その一方で、母の病気は少し悪化した。さらに薬の副作用で髪が抜けたり、嘔吐おうとしているのを見ていると悲しくなった。父も忙しくなり、弟と2人で過ごす時間が多くなった。病魔は母の健康と家族の時間をどんどんむしばんでいった。

 夏休みが終わり学校では、音楽発表会の時期になった。母の体調も少し良くなり、私の演奏と歌声を聞いてくれてとてもうれしかった。母が元気良く友達と話しているのを見て、とても感動した。このまま良くなると確信していた。しかしある日家に帰ると、母はいなかった。すると普段滅多めったに泣かない父が泣いた。私は何も知らされていなかったが、何かを察して号泣してしまった。そして父が、
「お母さん頑張ったんやけどね駄目やったんよ。『癌』が全身に転移して、」

 その先は聞きとれなかった。めていた感情が、一気に涙となってあふれた。私はただひたすら手で顔をこすった。そして、
「お母さんに早く会いたい。」と、私は言った。夜であったが病院に行った。そして母に抱きついた。寝たきりだけど、しゃべれたのでたくさん話した。時間が短く感じた。交流で出会った先生が、母の状態について優しく分かりやすく教えてくれた。そして病院に行く度に話を聞いてくれた。

 そしてとうとう母が喋ることができなくなった。覚悟はしていたが、悲しかった。その時いつも話してくれる先生が、母からの手紙を渡してくれた。その手紙には、
「口でいえなくてごめん」や「大好き」
などの文字がつづられていた。思わず涙が出た。病室に行き私も「大好き」と言おうとしたが、恥ずかしさのため言えなかった。ただひたすら手を握り、見つめることしかできなかった。精神がぐちゃぐちゃになり、おかしくなりそうだった。しかし前母が言っていた、
「この大きな壁をきっと乗り越えられる」という言葉を思い出し強く生きようと思った。そして9ヶ月という長い闘病期間の末、母は亡くなった。ひつぎには母との思い出のつまった、ぬいぐるみや服を入れた。なんだか笑っているような気がした。そしてしっかりと母の背を、押すことができたと思う。

 母が亡くなって約4年が経った。たとえ形、姿がなくても、心の中で私を応援してくれていると思う。また私は思いを伝えられず、後悔した。だからこれからは、恐れず恥ずかしがらず気持ちを伝えようと思った。そして世界中で病気で苦しんでいる人の分、今という一瞬を精一杯生きようと思った。

第6回 受賞作品

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