2020年2月6日
第3回 生命(いのち)を見つめるフォト&エッセー 受賞作品
一般の部【審査員特別賞】
「気持ち悪い先生」
田中 彩子(37歳)東京都
感じ悪い先生だな。怒りと共に診察室を出た。そして"あの先生"の診察が、私の当たり前になっていた事(こと)に気付かされた。
「どうされましたか?」の言葉を最後に、私に向けられたのは耳。目はパソコンに向かい、ひたすら何かを打っている。一切私に触れることもなく、とりあえずという理由で薬が処方された。診察は以上。そう、医者ってこれが普通なんだよね......。
"あの先生"とは、以前暮らしていた街の内科医のこと。私は数か月前、住み慣れたその街を離れ、この街にやって来た。今日は腹痛で、初めてこの街の内科を受診したのだった。
"あの先生"との出会いは偶然だった。その日も目が覚めると、腹痛に襲われていた。私に会社を休むという選択肢はない。上司に電話をして、病院に立ち寄ったらすぐに出社すると伝えた。家から一番近いという理由で、駆け込んだ病院。それが、"あの先生"の病院だった。
「どうされましたか?」の言葉と共に、私に向けられる目。淡々と症状を伝える私をじっと見つめている。何だか気持ち悪い。
「ベッドに横になって下さい。」目の下、口の中、爪の色、手の温度、お
再び椅子に座るよう促す先生から、
「一人暮らし?」「へぇー、ご飯は?」「偉いね、自炊してるんだー。実家は?」「千葉ならすぐに帰れるね。帰ってる?」「帰ってないの? そんなに仕事忙しいんだ。もしかして、毎日残業とか?」「うわぁー、無理!俺には耐えられないわー。だって、趣味の時間がないじゃん。ところで趣味は?」
やっぱり気持ち悪い! 何だこの人! ここは合コン会場か。いや、そんなはずはない!
私は早く会社に行かないとならないのだ。先生の笑顔が余計に私をイライラさせる。最後の質問に「旅行です!」と強めに答えた。私の怒りよ、どうか伝われ。「本当ー? 僕も、旅行好きなんだー。」伝わらなかった。
やっとパソコンに何かを打ち始めた先生がボソッと言った。「頑張り過ぎ病かな。」はぁ?初耳の病名だぞ。
「少し休もうか。今日は診察料いらないから、早く帰って家でゆっくりしな。」
「え?あのー、薬とかないんですか?」
「薬なんていらないよー。だって病気じゃないもん。ゆっくり休めば良くなるよ。」
豪快な笑い声が診察室内に響いた。
「休み! 休み! 今日は会社休みーー!」
より一層笑顔になった。
何だこいつ。既に気持ち悪いを通り越している。何の時間だったのだろう。私はとぼとぼと病院を出た。快晴だった。空が気持ち良いなー、と柄でもないことを思った。心がスッキリしている。私は自然と携帯電話を取り出し、「今日は一日休みます。」と会社に伝えてた。
再び目が覚めると外は薄暗くなっていた。病院から帰った私は、そのまま眠っていたらしい。硬い床の感触と共に空腹を感じ、夕飯を買いに外に出た。
何を食べようか。まだボーっとしている。商店街をふらふら歩いていると、目の前に突然、何かが現れた。
「こんばんは。しっかり休んだー?」
顔だ。笑顔で私の顔を覗き込む気持ち悪いおじさんの顔! こういう変な人には関わらない方が良い......いや、違う。先生だ!
「や、休みました!」
「明日も会社休んじゃってさー、実家の千葉に帰ってのんびりして来なよ。じゃあね。」
「は、はい。ありがとうございます!」
グッドサインをして先生は去って行った。ビックリした。今でも心臓がドキドキしている。あまりに一瞬の出来事。何が起きたのか、寝起きの脳が必死に処理していた。
私のこと、覚えていてくれたってことだよね? 胸の奥からじんわりと温かくなって来るものを感じた。ほっこりするという感覚、久しぶりだな。思わず笑みがこぼれた。そういえば最近、笑っていなかった。
30代・独身・会社員・一人暮らし。朝起きて、会社に行って、働いて働いて働いて、帰宅。その繰り返しの日々。私はいつからか、モノ扱いされることに慣れ、モノのように時間を過ごし、モノになることを受け入れていた。そんな私に先生は、私が人間であることを思い出させてくれた、そんな気がする。気が付いたら腹痛は消えていた。
病院を出た私は今、"あの先生"の事を思い出していた。「薬なんていらないよー」と言った先生の言葉の意味を