2020年2月6日
第3回 生命(いのち)を見つめるフォト&エッセー 受賞作品
中高生の部【優秀賞】
「無脳児の母、16歳の決断」
尾﨑 榛名(16歳)東京都
「無脳児」とは脳の大部分が欠損した状態で生まれてくる新生児をいう。私が初めて「無脳児」という存在を知ったのは、小学生の頃に父に勧められて読み始めた手塚治虫先生の「ブラック・ジャック」だった。小学生に読ませるにはあまり向かない内容なのではないか、と思いつつ、結局は全巻読破してしまったのだから流石、手塚先生である。その中で、最も印象に残った話が「その子を殺すな」(「ブラック・ジャック」3巻)という無脳児についての話だった。話の内容に絵のタッチも相まって私はその話だけはどうしても苦手で、その話のページだけは開かないようにホチキスで止めてしまった程である。
それから数年が経った2019年冬、昔のトラウマなど忘れていた私は衝撃を受けた。学校帰りの電車で携帯のニュースアプリを開き、退屈しのぎに画面をスクロールしていた手が止まった。
「無脳児の赤ちゃんが臓器提供......?」
その記事には以下の内容が書かれていた。2018年にアメリカ・テネシー州に住む夫婦が妊娠中の胎児を無脳児と宣告され、中絶するか臓器提供のために出産するかの選択を迫られた。話し合いの結果、臓器提供を行うために出産を決断。12月24日に生まれた赤ちゃんは1週間後に亡くなり、研究病院に寄付された臓器は2人の赤ちゃんに提供された。
帰宅後、私は晩御飯も早々に済ませ、部屋の物置を開けた。数回の引っ越しを経ても捨てることのできなかったあの本は、仕舞ったままの状態で段ボール箱の中に納まっていた。ページを破らないように丁寧にホチキスを外す。その夜、私は一人で数年ぶりに読まれる準備の整ったページと向き合った。
話の内容はアメリカの夫婦のものと大体似ていたが、一つ大きな違いがあった。それは、両親が"子供を生かすべきか"を決断するのではなく医者であるブラック・ジャックが勝手に子供を殺すことを決めてしまった点である。小学生の私が無意識のうちに抱いた恐怖はこれが原因だったのだと理解した。その日会った医者に突然我が子を殺すことを決定された親の気持ちになっていたのだ。しかし、と思う。はたしてブラック・ジャックの判断は完璧に間違いかと問われると頷くことはできないのだ。彼は子供を無駄に苦しませるならば誕生させない方が良い、と考えたのである。何が正しいのか、はたまた答えなどないのか......。だが考えなくてはいけない、と思った。もしも私が無脳児の母であったならば、どのように考え、何を決断するのか。そうしなければブラック・ジャックに文句を言う権利はないのだと。未熟ながら16歳の少女の決断を記す。
もし私が無脳児の母であったのならば、子供を産み、臓器提供のドナーとなるための延命治療を受けさせると思う。提供を行うことで子供が生きた証や、意味を持たせたいという勝手な親心である。また、臓器提供を行う場合、少しの時間ではあるが我が子の名前を呼び、その愛しさと温かさに触れることができる。その思い出は、我が子が亡くなった後も私の中に残り続けるだろう。私はここまで自分本位な理由しか述べていない。しかし、それは間違っているのだろうか。そもそも生命を生み出すことは親の勝手であって、そこに本人の意思はない。この時点で親は子供を産み、育てる決意がなくてはならない。人は死ぬ。何によって死ぬのか、どのような人生を送るのかは、生み出した時点では誰にも分からないのだ。生きていれば辛いこともあるだろう。だからといって生きている我が子を殺す親がいるだろうか。それを、障害を持っているだけで正当化して良いのだろうか。胎児本人には何も聞く
本を閉じる。今度はあの子を救えただろう。