様々な経験を積み重ね しなやかに歩んでいく
~産業医 川波 祥子先生~(前編)

今回は、放射線科医から産業医に専門を変えたのち、女性で初めて産業医科大学の卒業生として同大学の教授となった川波先生に、これまでの歩みや産業医のやりがいについてお話を伺いました。

産業医科大学とは

佐藤(以下、佐):まず、産業医科大学とはどのような大学なのでしょうか?

川波(以下、川):本学は、優れた産業医の育成を目的として設置された国内唯一の大学です。他の医学部と同様の6年間の医学教育に加え、卒業後すぐに産業医の資格が取れるような研修プログラムがカリキュラムに組み込まれています。

:先生がセンター長を務める産業医実務研修センターはどのような施設なのですか?

:学内外の医療職に対し、産業医学の実務的な知識や技術に関する教育や研修を行うための施設です。

産業医の資格を取っても、すぐ産業医として独り立ちできるわけではありません。一方で産業医は企業で一人で勤務することも多く、指導医のもとでトレーニングを積む機会も多くありません。そこで、卒業生は卒後修練課程という本学独自のプログラムで、産業医としての修練を積みます。当センターではこの修練課程の一部を企画・実施しています。学外の医師にも、産業医の選任資格を得るための研修会や、資格を取った後のスキルアップ研修を行い、産業医の生涯教育をサポートしています。

インタビュアーの佐藤先生。

放射線科に入局後、産業医に

:先生のこれまでのキャリアについてお聞かせください。

:産業医科大を卒業後、まずは放射線科学教室に入局しました。放射線科を選んだのは、画像診断に興味があったためですが、同じ大学出身の夫と結婚することが決まっていたことも理由の一つでした。本学の放射線科は当直や主治医制がなく、将来子どもができた場合もハンディなく仕事と育児を両立しやすい環境だと考えたのです。

その後、卒後修練課程を終えたタイミングで千葉の製鉄所から夫と共に声がかかり、夫婦で専属産業医になりました。

実際に行ってみたら、それまでとは全く異なる環境でカルチャーショックを覚えました。そもそも放射線科は病院内でも外の世界と触れ合う機会があまりない方なので、突然大勢の元気な労働者と触れ合うこととなり、自分は世の中のことを全然知らなかったのだと愕然としました。

労働者の中には、健康を犠牲にしながら自分のやりがいや家族のために無理をして仕事を続けてしまう人がいました。また、病気の後遺症を抱えていても働き続けようとする人もいました。そのような人々に医師として何ができるかを考えるうち、一人ひとりの仕事人生に寄り添うことにやりがいを見出すようになり、次第に産業医学を自分の専門として深めていきたいと考えるようになりました。

大学で産業医育成と研究へ

:専属産業医を務めた後、大学に戻って研究・教育に携わるようになられたのは、どのような経緯があったのでしょうか?

:夫は実家が開業医で、ゆくゆくはそこを継ぐことも考えていたため、専属産業医を6年ほど務めた頃、実家の福岡に戻ることにしました。当初は下の子どもが小さかったので、非常勤で様々な企業の嘱託産業医をしていました。しかし、いずれ第一線に戻りたいと考えていました。そうした時、大学で後進の育成や研究をやってみないかというお誘いを受け、大学に戻ることにしたのです。一般的な研究者のキャリアからは遅れてしまいましたが、数年かけて博士号も取りました。

今は、自分が産業医時代に課題だと思っていたことを研究テーマにしています。その一つが熱中症で、高温の部屋で被験者に防塵マスクなどをつけてもらい、どうすれば体温上昇を抑えられるかといった研究をしています。防塵マスクは塵肺を防ぐために必要ですが、実際に付けると非常に息苦しく、現場の人がなかなか付けたがりません。「法律で決まっている」「あなたのため」と押し付けるのではなく、マスクの息苦しさの改善や、作業ごとに適したマスクを提案できたらという思いで、現場に即した研究を行っています。

他には、若い学生、特に女子学生のキャリアに関する悩みの相談にも乗り、自分の様々な経験を活かしたアドバイスをしています。