医師の働き方を考える

医師の視点で施策に携わり
地域住民の健康増進に尽力する
~行政医師 浅田 留美子先生~

今回は、大阪府の行政医師として新型コロナウイルス感染症の入院フォローアップセンターの立ち上げに関わり、感染拡大時に入院調整の指揮を執られた浅田先生に、これまでの歩みや行政医師のやりがいについてお話を伺いました。

臨床・研究医から行政医師へ

インタビュアーの原先生。

:まず、浅田先生が大阪府の行政医師となられるまでのキャリアについてお聞かせください。

浅田(以下、浅):北里大学を卒業後、東京女子医科大学の小児科学教室に入局し、2年目に国立がんセンター中央病院の小児科の研修医になりました。その後、関西医科大学の衛生学教室で幹細胞の研究をしていましたが、夫が東京へ異動になったため、私も首都圏の埼玉医科大学に移りました。この間、研究と並行しながら、市中病院などで臨床にも携わっていました。

埼玉医大にいた頃、東日本大震災を経験し、関東を離れることを考えました。将来的に夫の地元の奈良に帰る予定だったこともあり、まず私と子どもたちだけで関西に行くことにしたのです。

:行政医師という職業を選んだのはなぜですか?

:常勤として決まった勤務時間で働けることに魅力を感じました。また、東日本大震災の時に保育園や小学校と行政とのやり取りを垣間見ていたことから、行政の内側で仕事をすることに関心を持っていました。子育てや家庭生活についてある程度経験したうえで行政の中に入ったら、何か役に立てるのではという思いもありました。

:入庁後、最初の勤務地は保健所だったのですね。

浅:大阪府に入庁する医師は、最初から本庁で勤務する場合と、保健所に入ってから本庁に異動する場合の二つがあり、私の場合は後者でした。現場に近い保健所で、保健師さんや保健所長の先生方に色々教えていただいたことで、その後の本庁での業務にもスムーズに入ることができました。

本庁に入ってからは、難病や精神医療、母子保健などを扱う地域保健課で勤務しました。私は小児科医ですから母子保健分野にはすぐに馴染めましたし、難病認定や精神保健は保健所で学んでいたので、引き続き関与できて良かったと思っています。

入院調整の一元化を図る

:その後、どのような経緯で新型コロナウイルス感染症の入院フォローアップセンター(以下、センター)の立ち上げに関わられたのですか?

:本来、地域保健課は感染症対策に関わることはあまり多くありません。大阪で新型コロナウイルス感染症の患者第1号が出た時も、直接的な関与はありませんでした。私が関わるようになったのは、センターを作って大阪府の患者さんの入院調整を一元化できないか、という議論が出た時に声をかけられたためです。

:センターの役割についてご説明ください。

:センターは、すべての保健所からの要請を受け、入院先を振り分けます。府全域の入院可能な空き病床を把握し、その時の患者さんの状況を見定めて適切な医療に結びつけるのです。

センターができるまでは保健所ごとに患者さんの入院調整を行っていましたが、どうしても医療資源に地域差が出ていました。自治体によって検査結果が出る時間帯も異なったため、早く結果の出たところが入院先を取っていく早い者勝ちの様相も呈していました。病院側も、各保健所から個別で受け入れを要請されると対応が大変で、一元管理の必要性が出てきたのです。

コロナ禍での苦労

:これまでの大阪府における新型コロナウイルス感染症の感染状況とセンターでの対応について教えてださい。

:第一波では1日あたりの感染者が最大で92人でしたが、初めてのことばかりで、どの部署も対応に苦労していました。当時の受け入れ病院は感染症指定医療機関だけで、最初の確保病床は32床でしたが、188床まで増やしました。

最も大変だったのは第四波の時です。アルファ株は非常に重症化率が高く、病床が不足して受け入れが困難だったからです。1日に最大250人ほどの入院調整をしましたが、府の確保病床をすべて稼働しても足りない状況で、特に夜間・週末の入院調整は難渋しました。搬送車両のやりくりも大変で、職員は夜中の2~3時まで仕事をし、食事の時間も取れないほどでした。24時間体制なので、夜間当番は眠れない日々が続きました。

第五波は、新規陽性者数は第四波より格段に多かったのですが、ワクチン接種の効果や軽症・中等症への適切な治療が行われたことで、重症化率や死亡率は大きく低下しました。確保病床も増え、第五波の最後は重症・中等症・軽症合わせて3400床となり、第一波と比べると100倍ほどになりました。

:お忙しいなか、ご家庭はどうされていましたか?

:子どもたちとはあまり関わることができませんでした。東京から私の母が来て、住み込みで助けてくれました。一昨年と今年は子どもたちの受験がありましたが、受験の書類に関しては夫頼みでした。義理の母も近くに住んでおり、私の場合は非常に恵まれた環境だったと思います。

子どもが小さい頃は、保育園に預けることに罪悪感を覚えることもありましたが、子どもたちから文句を言われたことはありませんし、今も関係は良好です。子どもと多くの時間を過ごすことを大切にされる方もいますが、私の場合は家族の支えと成長する子どもたちの理解のおかげでなんとか大丈夫だったように感じています。

行政医師としての使命

:今回のコロナ禍を経て、行政医師という仕事について、改めてどのように感じられましたか?

:行政の仕事は一見、医師の資格が必ずしも必要ではないような内容であっても、実際には医師ならではの視点が役に立つことが多くあります。例えば、宿泊療養施設の立ち上げにおいて、患者さんや医療職がどのようにその施設を使うのかを具体的に想像することができます。検査体制の構築においても一連の流れがわかるため、様々な局面で意見を出すことができました。

他の職員も、法律や技術など様々な専門知識を持っているため、それらの知識を持ち寄って仕事ができるのは大きな魅力だと思います。

:今後、コロナ禍が落ち着いてセンターが役割を終えた後は、どのようなお仕事をされる予定ですか?

:もし新型コロナウイルス感染症の感染症法上の位置づけの引き下げが可能な状況になったら、円滑に既存の医療体制につないでいくことが重要だと思っています。そうなった後も、行政医師として自分に果たせる役割を見出して、関わり続けていきたいと思っています。

:最後に、医学生や若手医師に向けてメッセージをお願いします。

:臨床や研究に携わっていた頃には今のような自分を想像もしていませんでしたが、当時学んだ、情報収集やデータ整理、研究計画、振り返りなどの方法は、新型コロナウイルス感染症の対策で大いに活きることとなりました。目の前の仕事一つひとつに専念していると、後々思いもよらない形でつながってくることがあります。皆さんもぜひ、色々な可能性にチャレンジして、様々な場所で活躍してほしいと願っています。

語り手
浅田 留美子先生

大阪府健康医療部保健医療室 副理事

聞き手
原 まどか先生

日本医師会男女共同参画委員会委員・山梨県医師会理事(取材当時)

※取材:2022年4月
※取材対象者の所属は取材時のものです。

No.42