医師のみなさまへ

2025年2月20日

第8回 生命(いのち)を見つめるフォト&エッセー 受賞作品
一般の部【厚生労働大臣賞】

「洗髪が教えてくれた事」

平山 直実(45歳)神奈川県

 私は中学の教師を目指していた。その理由は科目が専門的で、思春期の成長著しい生徒と関わることで自分も共に成長していけると考えていたからだ。 結果、大学への夢はかなわず、諸事情により看護学校へ入学した。 本来看護への道を望んでいなかったので同志であるはずの学友、日々の授業に違和感が自ずと生じた。学校は3年制。2年生まではその違和感をかき消すためにアルバイトに精を出した。3年生になってしまった。 ほとんど毎日患者さんと接しなければならない実習がある。全ての科を1年かけて、だ。 もう逃げられない。正直気が重くてならなかった。

 実習初日。私の担当は肺がん末期の70代男性Tさんだった。 「よろしくお願いします。」との私の自己紹介に「はい。」とだけ言ったTさんの目と顔は、強張こわばっていた。 医師によると日中は良いが夜間になると必ず痛みを訴え坐薬ざやくを使用、鼻には酸素カニューレが必須だそうだ。 その説明を受け「医師や看護師でもない私には何もできない」と思った。 Tさんの側に行き会話を試みた。何も言えない私がいた。「痛いですか?」とは聞けない。痛いのだから。「苦しいですか?」とも聞けない。苦しいのだから。 実習初日、時間が経つのが長く感じた。2日目。天気の話で少し会話ができた。会話をしながらTさんは今夜も痛みで坐薬を使用するのだろうなと思うと心が痛んだ。 3日目。何かしら自分にも役に立てることがあるかもしれないと考え思い切って聞いてみた。
「何かお困り事はありますか。」

 Tさんの気持ちを害さないか不安だった。
「髪を洗って欲しいな。」

 それがTさんの返事だった。

 医師、看護師から許可をもらい、気を付けることとしてカニューレがずれないよう手早く、酸素測定器も必ず付けるという内容だった。

 いざ洗髪。私の手際が悪く顔にたくさんの水が掛かってしまった。Tさんも苦しそうだった。洗い終えTさんの顔を拭きすぐにカニューレを鼻の下に戻す。 必死だった。ふと気付くと2人の向かいに大きな鏡があった。鏡越しにTさんと私の目が合った。 髪は乱れ肩で息をするTさん。反対に表情は爽やかで穏やかで別人のようで何よりうれしそうだった。 手際の良くなかった洗髪にそれはとても感謝して下さった。その日以降、洗髪の負担が軽減するやり方を工夫した。ねじりタオルを顔周りにあてた。 ねじったタオルにより顔に水が掛かっても水が吸収されるという仕組みだ。よって鼻と口の呼吸は安定する。洗髪は日課となった。慣れてくるとTさんは「もっと強く。」「耳の上も。」など私に要求をしてくれた。 ねじりタオルにより顔は守られ表情もよく見えた。 毎回、目を細めていた。「気持ち良いなあ」。何回も言って下さった。体調の優れない日は「明日は洗えると良いですね。」と2人の間には洗髪を通して自然と会話が生まれた。

 実習も最終日。私なりに手応えもあった。いつものようにTさんの6人部屋に行くとベッドが無い。 聞くと昨夜個室に移ったそうだ。Tさんがいるであろう個室に行くとドアが3分の1程開いた状態で医師、看護師が出入りし、ご家族がTさんをとり囲んでいるのが見えた。 ただ事ではない、私にもすぐに分かった。つい先日まで洗髪で目を細めていたまさにそのTさんが生死をさまよっている様子に私はただ呆然ぼうぜんと立ち尽くしていた。それが私の実習最終日の記憶だ。

 4月の実習が終わり学校は連休に入った。Tさんが気になる、その思いで連休を過ごした。 連休明け学校へ行くと看護教員からTさんが亡くなったと聞いた。そしてTさんのご家族から預かったというものを渡された。それは二つ折りの白い小さな紙で開けるとこうあった。
「髪をありがとうございました」

 初めて見るTさんの字。力強さは無く体調が優れない中書いたものと思われた。がんという病により痛みや苦しみ、不安と恐怖の日々を過ごしてきた、私には見ることの無かった夜のTさんの姿が目に浮かんだ。洗髪を楽しみにして下さっていたのかな、いやむしろ私の方が洗髪することが楽しみでならなかった。

 無知な私はTさんとの関わりで「人とは病により亡くなる存在である」と生まれて初めて知った。それが忘れもしない私の初回の実習だ。

 あれから23年。私は今も看護師をしている。今でも思う。知識や技術はもちろんだが看護とはそれだけではないと。 その答えは何なのか正直未だにわからない。しかしその何かを日々自問自答し、目の前の患者さんに常に誠実であることが看護師として決して忘れてはいけないことだと思う。

 私が切望していた人間として成長できる場は当初自分が思いもしないところにあった。看護という道。それを私に教えて下さったTさん。Tさんに心から感謝申し上げたい。

第8回 受賞作品

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