医師のみなさまへ

2025年2月20日

第8回 生命(いのち)を見つめるフォト&エッセー 受賞作品
中高生の部【文部科学大臣賞】

「ちっぽけなのに」

三浦 聖李(15歳)東京都

 私のじいじはみんなの普通のおじいちゃんとは違っていた。左手と左足が動かない代わりに車椅子いすを器用に使いこなし、目には見えないが体にはペースメーカーという心臓の動きをサポートする医療機器が入っていた。

 そして、そんなじいじをお世話するのはじいじの娘である私の母の役目であった。食事の準備、病院やデイサービスの手配、お風呂に入れてあげられるようにヘルパーの資格を取得、トイレの補助などまだまだ書ききれないほどのタスクを毎日こなしていた。日々忙しそうな母を一番近くで見てきた私は、自分がしっかりすれば母の負担も少しは減るだろうと考えていた。

 ある秋の日、じいじはなしが食べたいと言った。ちょうど母がいなかったので私はキッチンに踏み台を置いて、いつもよりも少し高いところに立ち、手では収まりきらない大きさの梨と30分ほど格闘した。みずみずしい梨のせいで私の手はお風呂上がりのようにしわしわになっていた。とても思い通りにはできなくて、少し落ち込みつつお皿に盛りつけたちっぽけな変な形の梨を、じいじは、
「美味しい、美味しいなぁ。」
と笑顔をこぼしながら幸せそうに食べてくれた。その後、母に勝手に包丁を使ったことを少し怒られたが、それ以上に褒めてくれたことを今でも鮮明に覚えている。母の役に立てたことがうれしくてしょうがなかったのだ。

 幼い私は知っていた。じいじが生きていくには母の存在が必要不可欠であること。その裏側で母がたくさんの苦労を重ねてきていたこと。介護は決して誰もができるものではないということ。だからこそ私は母をずっと尊敬していた。そんな母について、私には忘れることのできない一つの昔話がある。

 あの日は確か吐息が目に見える季節であった。私はお気に入りのダウンジャケットを着て、ポケットにはカイロを入れて母と2人で動物園へ出かけた。妹が生まれてから母を独り占めできていなかったので、つないでくれた母の手が今だけは私だけのものだと感じた。2時間ほど動物園を楽しみ、晩御飯のメニューを2人で考えながら家に帰ろうと出口に向かうと、なんだか外が騒がしかった。
「難病と闘う娘を助けるために、どうか募金のご協力をお願いいたします!」

 そこには4人ほどの大人と、母親と思われる女性が赤く冷えた手で募金箱を持ち、大きな声で人々に呼びかけていた。どうやら娘さんは生まれた時から難病を患っており、外国で治療するしか治す方法がないようだった。すると、母は私の手をひいてコンビニへと入っていった。レジの横の小さなサイズの温かいお茶を5本とココアを手に取り、お会計を済ませてコンビニを後にした。私達2人はもう一度あの人達のところへ向かった。

「これよかったら受け取ってください。」

 母が話しかけた。持っていたコンビニの袋にはまだ温かいお茶が5本入っていた。それを受け取った女性は柔らかい笑顔を浮かべ、
「ありがとうございます。助かります。」
と母に感謝の気持ちを伝えていた。その姿を見ながら私はふと、募金を呼びかけているのだからお茶よりもお金の方が何倍も嬉しいのではないかと疑問に思った。

 駅のホームでぬるくなったココアを飲みながら、
「なんでお金じゃなくてお茶をあげたの?」
と母に聞いた。すると母は、
「お金が大切なのはもちろんだけど、時には誰かの優しさが支えになる時もあるんだよ。」
と言った。母はその女性とどこか通ずるものがあったのかもしれない。きっとじいじを介護している上で諦めなければならなかったことやできなかったことがあったはずだ。それでも母の弱音を吐く姿は見たことがなかったし、いつも私の大好きな「ママ」でいてくれた。やっぱり私の自慢の母だと思った。

 それから少し時が経ち、普段は鳴らない固定電話の音が夕飯中の我が家のリビングに響きわたった。じいじが入院している病院からだった。私は何となく息をのんだ。

 それからというもの、時間が経つのがこんなにもあっという間なのは初めてで、ただ私の気持ちだけが置いていかれたまま、じいじの部屋には車椅子とつえがぽつんと寂しそうに夕陽を浴びていた。どうやら取り残されたままなのは私だけではなかったようだ。

 まだ心に穴が開いたままなのに、私は高校生になってしまった。もう踏み台に乗らなくてもキッチンに立てるようになったなんて知ったら、じいじはびっくりするだろう。

 大好きなじいじと大好きな母が教えてくれた、人に優しい気持ちを持つことの大切さを胸に、私は今日ものびのびと生きている。

第8回 受賞作品

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生命(いのち)を見つめるフォト&エッセー